★以前執筆した朝日ビジュアルシリーズ「野菜づくり花づくり」
の連載エッセイ「ソローヒルの庭から」を大幅に加筆改稿して1年間52回
週刊連載します。自然を愛する人々、田舎に住みたい方々に読んでいただければ幸いです。

文・鶴田静 / 写真・エドワード・レビンソン 禁転載


     「ソローヒルの庭 12ヶ月52週」
7月の
ソローヒルの庭で 第18週 2013/7/1から  七夕

小暑の日  草々の茶を淹れる

 今年の梅雨明けは、全国的に早かった。星祭りの夜は、ここ数年天気はよくなく、二星の一年に一度の逢瀬が果たせるか、と心配していた。が今年は、晴れ晴れとした宵闇に星がきれいに沢山出ていた。
 細い竹を一本刈りとり、願いごとを書いた何枚もの千代紙を枝々にくくりつけ、玄関前に立てかけた。が最近はネットでも願い事をする。例えばこんなこと。元ビートルズのリンゴ・スターがツィッターで、「自分の誕生日である7月7日には世界中どこにいても、現地時間の正午に「ピース・アンド・ラブ」と唱えてほしい」と呼びかけたのだ。たまたま彼の誕生日と東洋の星祭りが同じ日だったのは、すてきな偶然だ。これは全人類の願いなのだから。沢山のリツイートが寄せられた。

Edward_Levinson_ _DSC9871


 靄に包まれた庭では、ドクダミの十字に開いた白い花が目を射る。ハート型の葉を煎じると「十薬(じゅうやく)」になる。ビロードの手触り、艶やかな深緑、清涼感溢れる香り。こんな美しい草を忌み嫌う人間の美意識は、危ういものだ。
 そのそばで涼しげな顔をしている下草、それはスギナやミントだ。ドクダミも一緒になるべく若い葉を摘み、煮てお茶にする。葉の種類の組み合わせで、緑色、黄色、茶色に色づく。熱くして、室温で、冷やして、甘味を付けて、とその日の天候と気分によって淹()れ方を変える。庭の隅にいつの間にかそっと茂る草々だが、そしてのけ者にされがちだが、人間のからだによい成分を含んでいることを忘れたくない。
 梅雨籠りの合間外に出て、花や草木を眺めながらお茶を啜る。いかにも草らしい素朴な芳香と味わい、そして草が生まれ出る土の力強さが、からだ中を巡る。花と対面すると花からも、根と茎を通ってきたダイナミックな波及が私に向かって放射される。
 例年なら途切れずに降る雨のおかげで大地は豊潤なのだが、今年は空梅雨で、草木も花も野菜も甘雨を得られずにあえいでいる。わが家の井戸も、3つの雨水タンクも水瓶(みずがめ)も半分に満たない。天からの贈り物があれば、わざわざ水撒きをする必要はない、と喜ぶのは早かった。
 梅雨晴れの陽の中で、ヒメヒオウギズイセンの緋色が、待ち焦がれる夏を装った熱気を振りまく。小暑の日、笹の葉と一緒に揺れる千代紙の、赤や橙色に挑む派手やかさ、鮮やかさ。



 ソローヒルの庭で 第19週 2013/7/8から 炎昼

何かが欲しいときに花 何かが足りないときに花

 梅雨の季節だというのに、34℃とは。なるほど小暑になったが実感はすでに大暑だ。雨の向こう側では夏の灼熱が秘かに準備されていたが、それはすでに突進してきた。アガパンサスは、茎のてっぺんに球状につけた花を全部開ききり、ヒメヒオウギズイセンの花は、長い茎を這い上がって来た。
 その一方で終わりそうな花たちが、精一杯の輝きで咲いている。このまま庭に置いておくのが忍びがたく、部屋に飾ろうと、2、3輪の花を庭からいただいてきた。日陰になった窓辺に、タチアオイとグラジオラスの残り花を、コップに挿して置いた。2種の花の透過色の花びらが光った。今日初めて咲いたミントの花を添えた。 
 この窓辺には色付きガラスの小物を飾り、窓の下の食器戸棚には、ふだん使いのグラス類や瓶などを並べている。これを私は「見える収納」と呼ぶが、コップや瓶に花を挿せば、それだけで十分「見せる収納」になる。ガラスという硬質の素材が集まると、涼しげだけれど堅い印象になる。そこに生き生きと息づく色鮮やかな花を添えれば、その堅さがやわらぐ。ほんの小さな花を加えるだけで、その場が華やぎ明るさを増し、人の心さえ変えるのだから、花にある力は大きい。 

Edward_Levinson_ _DSC8241


 何かが欲しいときに花。何かが足りないときに花。コップに1輪の花が、いつも絶えずにある幸せを得るために、私は花を咲かせている。歌人、与謝野晶子は、「私は室内に花を欠きたくない」と言ったが、彼女の情熱は花に対しても深い。こんな静穏な歌も詠んだ。「遠方(おちかた)のものの声よりおぼつかなみどりの中のひるがほの花」。
 そう、よく見渡せば、野にも庭の隅にも、小さな花が密やかに咲いている。ヒルガオ、ツユクサ、ツルボ、ゲンノショウコ、イヌタデ。コップに挿せば、どの花もその姿は大きい。
 四肢の吸盤を全開させてガラス戸に張り付いているのは、翡翠色の小さな雨蛙たち。カタツムリも群れているが、これからの炎昼(えんちゅう)の中、どう過ごすのか。大丈夫、花陰も草陰も彼らを抱く。私も植物や動物のように元気のままでいたい、と、乳がんの検診でマンモグラフィーをし、子宮ガン検診もしたが、後の結果では異常なし。

ソローヒルの庭で 第20週 2013/7/15から

空梅雨の庭から夏の庭へ

 薄い靄の中で緑の木々が濡れ光る。街でのお盆の賑わいを遠くに、沈思する庭の中で直立する花々は華やぎを過ぎ、一つ、また一つとその花頭を垂れていく。ユリ。アガパンサス。1メートルの丈のグラジオラスと、3メートルの高さのタチアオイの長い花茎に付く花が、下から始まり、ついにてっぺんに登り詰めてしまった。下方の花は皆、萎れて色褪せ、だらりとぶら下がっている。
「タチアオイの花がてっぺんに咲くと梅雨が明けるのよ」。昔からの言い伝えを農家の人から聞いていたが、その通りになった。そう、タチアオイの別名は「梅雨葵(つゆあおい)」である。
 しかし今年はすでに猛暑続き。連日の暑さにすでに熱中症で病院に搬送された人が数百人、千人を超える数で出ている。 
 求めていた雨に恵まれなかったにもかかわらず、けなげに咲いた花のすべての長い茎を、根元から切り取った。それからアジサイやクチナシの、からからに乾いた花頭を取り除き、花殻摘みをした。ムラサキツユクサの花茎20本も刈り取る。この作業をしておけば、次の年にはよりたくさんの花を付けてくれるだろうから。

Edward_Levinson_ P6140888

 100本を越えるタチアオイの茎は、乾いた実を付けたままさらによく乾燥させる。それから実をほぐして種を採り、秋まで保管する。しかし今年は、本業が忙しくて、細やかな作業が出来ない。そこで、花壇に種を含む実をそのまままき散らした。 
 夏らしく、大きな雲を浮かべた青空の下で、ムクゲが花を開き始めた。すがすがしい白や薄いピンクの色で、涼やかさをもたらしてくれる。その下ではこれからが大事な出番のナスやトマト、ピーマンやオクラ、キュウリやシシトウが、豊かに実を付けている。花といい野菜といい木々といい、天水によってどれほど栄養を与えられ、生長を促されることか。それは天の恵みなのだが、今年は水道の水をホースで撒かなければならない。。
 空梅雨でも、梅雨明けに変わりはない。梅雨の庭はいよいよ夏の庭へと趣を変えていく。その証のように、サルスベリやキョウチクトウが明るい紅色の花房を膨らませ始めた。光も風も、虫も小動物も万象綯い交ぜの変貌こそが、庭をつくる人、見る人の期待と喜びなのだ。
 今週は参院選の運動が熱く繰り広げられている。この結果が、私たち日本の現在と行く末をきめるのだから、無関心ではいられない。市民運動が、ジャスミン革命と名付けられ、日本ではアジサイ革命とも言われ、そしてこの時期だからヒマワリ革命とも呼ばれているらしい。
いずれしろ、友人や未知の人たちと社会的に結ばれる機会を、花々が作ってくれるのだ。

ソローヒルの庭で 第21週 2013/7-22から 大暑

生い茂る夏草 蚊の襲撃

 朝4時だというのに空はもう明るい。刻々と虹色のグラデーションを変えていく。早起きの蝉たちが大合唱。小鳥たちの歌声もかき消されそうだ。どちらかといえば、騒々しい蝉の鳴き声よりも、コマドリやヒバリやアカハラなどの、コロラチュラ(ソプラノの装飾的唱法)の美音の方が、目覚ましには心地よいのだが。 
 太陽に向かって深呼吸を繰り返したら、まず庭に出る。朝露が植物に降り立ち、朝日がその粒子を輝かせている。庭全体がしっとりと濡れそぼち、そこから冷気が立ち上る。この涼しさがあるうちに一仕事終えなければならない。 暦では「大暑」になるが、それ以上の暑さを覚悟しよう。
 私は小道に沿って草を取り、菜園に入って野菜の周りの草を抜く。野菜作りをしている、と言えば、それぞれの品種別にその野菜の姿形が分かる畑があるはずだ。しかし我が庭では、生い茂る夏草で野菜が覆われている始末。私は「放任農法だから」と嘯(うそぶ)く。
 夫は草刈り機で、「みんなの道」と地元の人の呼ぶ農道を、汗水垂らして草刈りしている。250メートルを一人で刈るのは苦行だ。太陽と追いかけっこで、こちらが勝たなければ、途中で仕事を放棄させられる。時々見かねた人から応援があるのはありがたい。 

Edward_Levinson_ P7281218


 7時のチャイムが空で鳴った。太陽はもう南から西に向かい、登り坂を歩いている。汗だくになって、「ここまで」と見切りをつけて作業の成果をチェック。除草はつい最近やったばかりなのに、小笹やメヒシバが生え、コスモスの細い苗やオシロイバナやホウセンカの咲く花壇を荒々しくしていた。が、埋もれていた草花が端然とした姿を現すと、その部分だけは美しさを放つ。大暑に打ち勝った満足感と、仕事を終えた達成感とで、朝食のおいしさは格別である。
 昨日の参院選の結果に、世の中も私自身も、悲喜こもごもだ。自身の投票結果は良かったのだが、大勢は、恐ろしいような当選者だった。これでは個人的にしっかりと生きていくしかありようはない。
 午後の陽が翳ると、タチアオイの枯れた茎が林立する花壇で、すべての茎を取り払う作業だ。全体で100本以上あるので、先週からの作業はなかなか終わらない。結んだ麻紐や支柱を外すにも、けっこう手間がかかる。美しい花を愛でているときには、こんな労働のことは思いも浮かばないが。

 夕闇迫る頃になると、蚊の群れに襲われる。もちろん長袖シャツに、手首足首を手袋や靴下でしっかりと覆う装いだが、それでも蚊や虫たちは、血を求めて食いついてくるから恐ろしい。キンカン塗ってまた塗って、だ。

ソローヒルの庭で 第22週 2013/7-29から 朱夏

槿花(きんか)一朝の夢  種類を交えて蝉時雨

ソローヒルの蝉時雨をお聞きになりながらお読み下さい。



 朱夏の陽射しに晒されて、ムクゲが咲きすさんでいる。空にかかる花の白さは入道雲と溶け合い、日光をまっすぐに浴びてきらきらと照りかえっている。ほとんどが白い一重の花に交じって、薄桃色と紫色も、八重も数本ある。
 秋の季語に分類されるムクゲ(槿)だが、夏にふさわしい清涼感からいえば、やはり白だ。すっきりとした一重の花は凛として品がある。だが惜しいかな、五弁の花びらが朝開き、夕方には萎れて閉じて、花冠が椿の花のように、ぽとり、と落ちてしまうのだ。「槿花(きんか)一朝の夢」という言葉がある。一日花のその儚さゆえに高貴感が漂い、昔から茶の湯の夏の茶花として飾られた。とはいってもムクゲは、花期は長く生命力も強い。韓国の国花であり「無窮花(ムグンファ)」と呼ばれる。無窮(むきゅう)とは無限のことだ。
 そんなムクゲの中にあって、これぞ夏の花、といわんばかりに大きな花房をゆさゆさと笑うように揺すっているのがサルスベリだ。濃い桃色の球は日に日に膨らんで、季節を支配しようとする。いいえ、それは私、と同じ色のキョウチクトウが、競って花数を増やしている。 
「ここにはセミがたくさんいるのね。久し振りに鳴き声を聞いたわ」と、都会からのお客が驚き喜ぶ。朝から晩まで、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシ、それにヒグラシまで種類を交えて蝉時雨(せみしぐれ)。だが耳を澄ますと、別の何かが聞こえる。それは、水が欲しいと訴える植物たちの悲鳴である。

 Edward_Levinson_ _DSC2978

 30度以上もある真夏日が数日も続けば、大地はからからに乾き、地面はひび割れている。雨を待てずに水撒きをしようにも、井戸も数個の雨水タンクも、庭のあちこちに置いてある水瓶も底を突きそう。炎天下で喘いでいる植物に、私たちのシャワーを数回減らしてでも水を遣るのが、「世話」というものだ。人間の水は水道から溢れ出、飲料水は買える。植物は、天地の恵み以外、自ら得ることが出来ない。必要なところへ必要なだけの水を、自然よ、与えて欲しい。
 今週は東京の隅田川を始め、日本中どの地域でも花火大会がある。しかし隅田川では今年は異常気象のため大雨になり、すぐに中止になり、残った花火15000個が廃棄されることになってしまった。花として咲かずに種のまま無くなるのは何とも悲しい。
 ここは海の町なので、海の中を花火が舟で走るように打ち上げられる。観客は浜辺に坐ったり寝そべったりして鑑賞する。「火の花」とはよく言ったものだ。漆黒の満天に広がる大輪の花。キク、ボタン、ヒマワリ、タンポポ、アジサイ、新しい花ではトケイソウやポインセチアが火の花となって宙で開く。キクとボタンは代表的な花火で、芯の色や形が多様にある。
 土と格闘してやっと咲かせた花をしばし庭に置き忘れ、宇宙で満開になる花に私は心を奪われる。「花火一夕の夢」であるからこそ。
ああ、もう8月に入ってしまった。セミたちは鳥たちのさえずりにも負けず元気に鳴いているが、人間は猛暑にぐったりして声も出ない。わが愛犬も舌をだらりとしている。    (次週へ続く)

 

文章が部分的に収録され、24節気別の料理掲載の単行本です。

 『庭の恵みを楽しむ料理』
asahi_cover_web

各植物についての単行本です。Amazonで
『丘のてっぺんの庭花暦』淡交社 
cover_tankosha_240web

『ベジタリ アンのいきいきクッキング』A4版95ページのカラー写真豊富な美しい本

 
NHK出版 1600円+税     
(写真:エドワード・レビンソン)
Amazon



鶴田静のブログトップへ