「東北被災地を見る−2012年4月」

2012年4月6日から10日 気温6℃から10℃
宮城県多賀城市

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「スイセンプロジェクト」の会場国府多賀城駅の
東北博物館へ。多賀城跡にある近代的な大きな建物。この町のロータリークラブ主催のイベント「スイセンウオーク」。昨年、園芸家、柳生真吾氏の呼びかけによって、「自分の庭のスイセンの球根を被災地に送って植えよう」という趣旨の「スイセンプロジェクト」http://suisen-project.com/が立ち上げられた。私も参加して、庭のニホンスイセンの球根を107個掘り出して送ったのだ。これまでに全国から 13万2千個の球根が集まったという。植えられたり配られたりしたのは三県の40個所以上だ。
東北博物館に昨年の秋、ニホンスイセンが植えられたとの報告。1600個の球根。その中にもしかすると私の庭からのがあるかも知れない、見たい、と思って参加したのだ。

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会場でまずsinger-songwriterのきくち寛氏のコンサート。自作の素直な曲ばかりで好感がもてる。柳生氏の「スイセンプロジェクト」の始まりからの話はとても感動的だった。震災直後の被災地に行ったら、瓦礫の中に黄色い水仙が咲いていた。「花があった!」と彼は感涙に咽んだ。そして園芸家である自分が被災地のためになすべきことを知ったのだ。球根は夢である、希望である。自分の庭の球根を分かち合う。それには思いが詰まっている。それを植えて育てる、花が咲く、球根が殖える、夢や希望がどんどん大きくなること、他に与え、分かち合うこと。共感し、感動した。

柳生氏と、史跡のガイドさんと、20人ほどの参加者たちと植えられたスイセンに会いに行く。地元民だけでなく、各地からの「スイセンプロジェクト」の仲間が多い。
まだ下萌えもまばらな冷たそうな大地をゆっくりと行く。この近くまで津波が来たのだが、ここは何事もなく良かった。
アヤメ園と、JR東北線国府多賀城駅の側に植えられた私たちの送った球根は、10から20センチに伸びて、主にニホンスイセンが小さな花をちらほらと咲かせていた。まだ冬の寒さの中で花盛りでなく残念だが、確かに大勢の人々の手によって植えられ、芽が出、伸び、蕾を持ち、花を咲かせることが確かめられた。花壇の終わるその続きの囲いの中ではトラクターが、瓦礫処理をしている。

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上と下の写真は,花壇がつながっている。
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4月の終わり頃、暖かくなった東北の地、あの場所の見事に咲き揃ったスイセンの写真が届いた。この中には私の庭からの水仙もある、と確信した。ずっとここに咲き続けて、被災地に希望とほほえみを与え、この時代の出来事を語り続けていくことだろう。

一路石巻へ
多賀城市から10分くらいの松島に1泊した。松島は津波の被害が一部だけで大方避けられたので、観光客も多かった。翌午前、1時間以上走り、しだいに荒涼とした地域に入る。港の方面に向かっていくと、その一帯が被災地だった。ここは東松島町大曲浜である。

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国道45号線の東側には多数の半壊の家が建ち並び、土地には小降りの瓦礫が散在している。茫茫とした辺り一帯に電線が1本もなく、電柱は倒れ、半壊していることが、津波に襲われた証拠となっている。何本かの木が、枯れたまま、あるいはまだ芽吹かないまま遺されているのが、悲しくもあり、春が来るまでの希望である。
まず目に付いたのが真新しく見える一戸の洋風住宅。HOMEという英文字と、大曲浜と書かれた漢字、そしてたくさんのいろいろな色の花が外壁一杯に描かれている。

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正面から見ると、家は完璧に遺されているように見えたが、裏手に回ると、戸は一枚もなく、部屋の中の家具はずたずたに壊れ、汚れた子どもの人形や美しいピンクのドレスが悲しげに遺されている。この家の絵は、住人が過去の美しき思い出を留め、幸せだったここでの暮らしの証拠を印しているのだろう。

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1時間以上歩き回り、さまざまな人間の多様な暮らしの遺跡を辿った。
風の音ばかりで、人間の声も生活の音も何もしない。が、大地の中から日用品が半分頭を出してその存在を訴え、救いの手をさしのべている。青空の中の壊れた家は、ガタガタになりながらも偉容を持って立っている。強い風が吹き、剥がれそうなトタンや板や壊れた戸や窓の硝子がひゅーひゅーと鳴ると、私は家の中に人がいるのかとどきっとした。が、それはうち捨てられた家が、家人の帰りを求めて泣き、助けを求めて叫んでいるのである。だがこの地区は、集団移転の対象となっているのだ。もう誰も戻っては来ないだろう。何台かの車がすっと入り、またすっと去っていくだけで、人気は無い。




新大曲浜橋の両手すりに、小さなこいのぼりが10数匹、一本の縄に飾り付けられ、風に泳いでいる。今は東北大学の男子学生が、ここで津波にのまれて亡くなった小さな弟のために、全国から青いこいのぼりを集め、その年のこどもの日に、204匹のこいを掲げたのだという。今年は280匹である。壊滅した自宅跡から、弟の好きだった青いこいのぼりが震災の2週間後に見つかったことからだった。

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橋の北川は田圃だが、へどろ化しており、小さな船が落ち込んでいる。海側へ行くと、港では、仕切られた広大な敷地内で瓦礫の収集が業者によって行われている。日曜日にもかかわらずクレーン車が数台作動している。土の山、瓦礫の山積。そこまで入り込んだが、この先は通過できない。ガードの男女に「ご苦労様です」と、私たちが優しく頭を下げると、誰もが嬉しそうに微笑んだ。

松島から石巻へと急いだ。
45号線をひた走り、一級河川吉田川の脇を通る。この辺にはビルなどの建物はなく田圃ばかり。鳴瀬大橋を渡る。田圃の中に小舟が一艘横たわっている。津波が運んだのか。
石巻市内に入り、ガススタンドで被災地を聞くと、女性スタッフが適切に教えてくれた。その通りの道順で行くと、ああ、そこはいつもテレビで観ていた、あの大津波が押し寄せた石巻市南浜町だった。大曲浜ほどの数ではないが、それでもまだ半壊住宅が遺っている。

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津波で壊滅した門脇町と南浜町では、あちこちで火災が発生したのだった。
特に門脇小学校周辺の火災は大規模だった。門脇小学校はコンクリの残骸と化して、黒々と焼け焦げた窓が目になり、多数の目を明けてこちらをじっと見ている。ここに避難した幼稚園児7人が犠牲になったのだ。

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その上が市民が避難して助かった日和山だ。私たちはここからの人々の叫びと押し寄せる津波をテレビで観ていたのだ。このときは樹木ばかりだったが、4月末には400本の桜が満開になり、荒廃した町を見下ろすことになる。
(後日、ETV特集「失われた言葉をさがして 辺見庸 ある死刑囚との対話」を観た。作家で詩人の辺見氏の故郷は石巻市。門脇小学校出身。彼は番組でここを訪れた。)
そして反対側にあの津波が越えた、壊した日和橋がある。その手前は車の残骸が山積みだ。ここには何台かの車と人々が見に来ている。皆、深刻な表情で無言。捧げられた花束が枯れ、様々な暮らしの物たちの残骸が土の中にめり込み、硝子や鉄くずや石や刃物のかけらが敷かれている。

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橋を渡り、少し行くと、鯨の缶詰工場の看板の巨大缶詰が橫倒れになっさたままで道路をふさいでいる。そばには同じ大きさの缶が二つ、錆びたままで寝転んでいる。

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看板の缶詰のそばに花壇が作られていた。サインボードを見ると、このプロジェクトの後援は雑誌「ビズ」とある。編集長の八木さん、がんばったのだ。まだ,花は咲いていないが、春にはたくさんの花で埋まるだろう。

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あの311の日の恐ろしい津波の映像を思い出しながら次へと向かう。石巻市立大川小学校だ。カーナビのおかげで小一時間かかりようやく辿り着いたのは4時前頃。北上川の右側に沿って、一心に運転してきた。その1キロ手前のガードレールは壊れ、船が一隻ある。田圃にはヘドロの堆積。

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海から4キロ、北上川の河畔の下に、開けた空虚な土地が広がり、山際に半壊の大川小学校があった。半円形の教室や、デザインの良い楽しげな学校の面影はまだ十分に遺っている。近寄ると手前に慰霊塔が建ち、たくさんの花束が取り囲んでいる。私も用意してきた花束を捧げ、お線香を焚いて冥福を祈った。ただただ涙があふれ出した。74人の児童と10人の教師、そして約2万人の死者のために。

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校庭に続く杉山を少し上ると、そこにも打ち上げられたたくさんの遺物が。墓石までも多数ある。もし、児童たちがここに残ってこの山に駆け上がり、杉の木に摑まっていたなら、助かっていたかも知れないと思った。杉の木の被害はそれほどとはみられず、どの木もすくっと立ち並んでいるのだから。そして子どもたちはいつもこの山で遊んでいたのだろうから。きっと全力を尽くして山に逃れたかもしれない。命を落とすことはなかったかもしれない。しれない、しれない、しれない-------。
しかし、「 中央公論」2011年8月号掲載の菊地正憲氏(ジャーナリスト)によると、避難の討議で校舎の西脇にある裏山に逃げるべきだとの声も出たが、「倒木や雪があり余震も続いている」などと異論が出た」という。それで、校庭から7メートル上の橋のたもとの高台に避難しようとしたのだ。すると北上川に架かる新北上大橋脇の堤防道路付近にいた子どもたちに、大津波が襲ったのだった。

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祭壇に飾られている以前の写真を見ると、学校を優しく見守っていただろう近所の家々も、すっかりと無くなっている。ここはもうすべてが一掃され、更地になっている。壊滅した学校だけが、あの日のままに立ちすくんでいる。
遺族や卒業生だろうか、日曜日、4月8日の釈迦の誕生日ともあって、入れ替わり立ち替わり車でお参りの人々が訪れている。
四方を山に囲まれた抜群の環境の中のモダンなデザインのすばらしい学校だった。この学校が建てられたときのデザインは大きな関心と話題を呼んだという。以前の卒業生が制作した壁画がかろうじて残っているが、「雨ニモマケズ」の言葉が大きく響いてくる。ここで学んだこどもたち
はどんなにすばらしかっただろう。
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夕方5時になっても空は明るく、雲が大きく広がり、巨大な灰色の雲の塊の中から、幅広い長方形の一条の光が下に向かって降りて来た。弔いに参加しているのか、亡くなった人々に会いに来たのだろうか。私は無念の思いを抱いて、立ち去りがたい後ろ髪を振り切ってその場を去った。

昼頃に
気仙沼漁港に着いた。カモメたちがとても元気でキーキーと啼きながら、海の上や街路で、食べものを探して飛び回っている。
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まず目に入ったのは、河北新報社の立派な建物。しかし、1階あたりは壊滅している。仙台市本社では被災後もずっと新聞の発行を続けてきたのだ。それはテレビドラマ化されたが、撮影はここでも行われたという。このあたり一帯にはしっかりした建物は壊れているものの、まだ多数とり残されている。地面には一面、瓦礫が散乱している。海水に浸かった部分もある。「リアスシャークミュージアム」の水族館は壊滅している。

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漁港の建物の中では何台かのトラックの荷上げがされていた。2011年6月にはカツオの初の水揚げが行われたとの報道がされ、誰もが胸をなで下ろした。今年の冬にはマダラも水揚げされ、漁港は歓喜に湧いたという。
しかし報道によると、漁港が次のように再編成される構想があるという。「宮城県は水産業の復興に向けて142の漁港のうち、4割に当たる60の漁港を「拠点漁港」として機能を集約し優先的に復旧を進める一方、残る82の漁港については最低限の復旧にとどめる方針を示している」というのだ。
漁港一帯に広がる、一応は一掃された災害後の失われた街区の痕跡を辿りながら、この町の未来はどうなるのだろうかと思う。死者977人、行方不明者473人、合計1,500人もの犠牲者が出ている。
造成された道路を走るのは瓦礫運搬車ばかりで、薄黄色の紙に「気仙沼災害」と印刷された紙を運転席の窓に掲げ、忙しそうに行き交っている。それでも港には多数の船が停泊し、気仙沼市の東北最大の有人島、大島をつなぐフェリーも、一般漁船も通っている。その船の乗客らしい人々が一団となっていて、少しほっとした。
船乗り場近くの片隅ではテントの中に復興屋台村「気仙沼横丁」が昨年から出来ていて、たべものやが連なっている。何やら楽しげな雰囲気で、こちらが元気づけられた。港は、それほどではないにしても港町らしい活気を取り戻しつつあるのが喜ばしい。

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この目で見たもののなかで一つの圧巻は、市街地に流された大きな船だ。底が赤、上体が青に塗られた全長60メートル、330トンの漁船「第18共徳丸」である。沖合から約900メートル、気仙沼漁港岸壁から北約500メートルのJR鹿折唐桑駅前まで流された。かつてあったJR路線はないが、船のすぐ手前に「鹿折唐桑(ししおりからくわ)駅前」というバス停が新しく立っている。バスの到着を待つ高齢の女性が一人いたが、乗客はほとんどいないという。
この船の周囲は片付けられ、モニュメントとして遺されている。私は両手を合わせて合掌してから撮影した。が、ふと見ると、「撮影者は被災者の気持ちを思って」という意味の立て札が立てられていた。陸地に打ち上げられた巨大な船のこの姿を見たら、誰が手を合わせずにいられるだろう。
何人かの人々が来て撮影している。黒スーツの視察団がバスで来た。観光タクシーもいる。外国人がレンタル自転車で津波の跡を見て回っている。


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何処の被災地でも道で出会う人々は皆親切で、「瓦礫やガラスの破片があるから、車のタイヤがパンクするかも知れない。気を付けて行きなさいよ」。「そこをまっすぐいけばすぐに被災地がある。まだまだひどいもんだよ」。悲しみを胸に秘めて、挨拶は笑顔で返してくれる。
私たちは生き残った者として、これらの地の災難を、心情的にも行動的にも共有しなければならない。そのために私は被災地に来たのだ。
これから始まる大型連休に向けて、被災地では多くの人々が訪れるよう期待している。ボランティアとして、見学として。 そしてボランティア・ツアーの申込者は満員だという。喜ばしいことだ。       (鶴田静)

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