この月あの時

© Edward Levinson

「世話する喜び」

   夏はまだ逝かせないぞ、とばかりに蝉が 声を一段と張り上げるので、もう出番だと思っていた虫は、虫の息で鳴いている。真夏から咲いているムクゲや芙蓉の花も次々と開き、夏の輝きを保とうと一生 懸命だ。気混もあいかわらず真夏日から下がらない。けれども自然には逆らえない。あれほどの緑だった田んぼは、黄色い絵の具を上塗りしたような色になり、 稲刈りは例年通りで、すでに終わった田んぼもある。そして日本列島には台風の、そして地震の往来が激しくなる。それにしても、どうして九月には大災害が多 いのだろう。関東大震災、ニューヨークの九・一一、04年にはロシアの学校占拠事件……。もちろん大災害は今月ばかりではないのだけれど、「防災の日」が 決められるほどではある。いつ、どこで、だれが人災天災に遭うかは予測がつかない。その時の覚悟と用心は常に心がけなければ。と思いながら、私はわが愛犬 を見守っている。犬17歳、人間なら90歳くらいだろうか。めっきり歳を取り、乳癌と脳梗塞の大病を患った。片目は失明、耳は聞こえず、脳梗塞の再発、足 腰の弱り、とすっかり老体になった愛犬だが、我が家の敷地内で放し飼いにするうちに、どこへでも出歩くようになった。庭の石段や坂道を上がり降りし、家の 中では部屋中を歩き回り、その動きは活発になった。それどころか、坂道を降りて、5百メートル…以上も先の街道まで独りで出て行ってしまう始末。そして良 く吠え、良く食べる。「食べられるうちは大丈夫。長生きしますよ」と獣医さんの御墨付き。忙しく動き回る私たちと一緒に生活しているうちに、生気を取り戻 したのだろう。
 彼女の病んだ目や腹の手当て、不自由な耳と目の補助、治 療のための特別食の料理、と介護の手は1日たりとも抜けない。だが濁った目でじっと私の顔を見つめ、尻尾を振ってすりより、ご飯が欲しい、と吠えて訴える 様子は子どもの頃と変わらずとても愛らしい。私は、前より半分に細くなったからだを抱き締め、顔に頬ずりして「いいわね、長生きするのよ」と訴える。そし て思うのだ。こうして世話をしてあげる者のいることが、どんなに私自身を幸せにしてくれているか、と。
 そういえば、十三年前から何度か、チェルノブイリ原発事 故の被害者の子どもたち五人を、載が家で一月間ずつ繭囲ホームステイで預かったことがある。鼻血を出し、腹痛を訴え、精神的にも落ち込んでいた彼らだっ た。が、ボランティアと一緒に懸命のお世話をした結果、症状はすべてなくなり、リンゴのようなほっぺになり、元気で帰国させることができたのだった。彼ら はすでに成人し、結婚し、子どももいる。彼らの健康と幸せを知ることは私たちの歓びでもある。
 私の20代の知り合いは、親のいない幼児たちの施設で世 話をしている。彼女は親の立場だから、休日も定まらないほどの勤務状態だという。別の女性もやはり若いが、介護士をしている。人間の生の根源的な必要性を 自分では満たせない部分を、養育や介護という仕事を通して世話をし満たす。それは自己を滅しなければできないことだ。そんな彼らに接すると、そういうこと をしていない私自身がつまらない人間に思え、後ろめたさを感じている。その穴埋めのようにせっせと病体・老体の犬の介護をする日々である。
 9月の終わりには動物愛護週間があるけれど、私にはこれ からもずっと、毎日が動物愛護週間だ。
それにしてもJ動物〃には〃人間〃は含まれないのだろう か。と乳幼児や高齢者虐待の悲しい新聞記事を目にして、こんな馬鹿げたことを考えざるを得ない社会になってしまったことを嘆くのである。
 蝉の声の音量がしだいに小さくなり、どうやら虫が天下を 取ったようだ。キクイモの花の黄色が秋空の下で鮮やかだ。
  yuai2005年9月号 を再編集
yuai誌は日本で最大の労働組合団体、ゼンセン同盟の機 関誌 です

最新刊『犬のくれた幸福』(岩波書店) により詳しく書きました。どうぞお読み下さい。