こ の月あの時
11月



© Edward Levinson


  るり色の空はあまりにも透明なので、見つめているとそれを突き破りたい衝動に駆られる。けれどもつき抜けてもつき抜けても、それは果てしなくガラスのよう な空のままなのだろう。その張りつめた真空の中で、濃淡のコスモスの花が涼やかな秋風にゆらゆらと揺らいでいる。コスモス畑の中を蜂が忙しげに飛び交って 蜜を吸い、やがて赤とんぼの群れに追われていく。いくつもの命の営みが、青い空と緑の大地の間で繰り広げられている。
 空とコスモスの群生、たったこれだけの風景の中にも、宇宙が大きく広がっている。宇宙ーーコスモス。今この瞬間の宇宙は太古からの連続。などと大それた ことでなくてもいい。春先に種を蒔いたわけではないのに、そして去年はたった数本のコスモスしかなかったのに、雑草の中から無数のコスモスの苗が生えてき たのは一体なんの仕業かしら、と考えるだけでも宇宙の力が感じられてくる。
 ある春の母の誕生日に、亡くなった母の遺骨を花壇に蒔いたその場所には、コスモスの種がまだ眠っていたのだ。自分だけの場所に、ほんの少しの母の形見を 持っていたいと願ったのだが、きっと母も、私と一緒にいることを喜んでくれるだろう。無理にでもそう思いたいのは、母の晩年を共に暮らしてあげられなかっ たことを詫び、それを許してもらいたいからなのでである。
 コスモスがこの様に盛っているのは、もしかしたら母の遺骨のせいかとも思う。それは土に還って栄養となるからだ。花が大好きだった母だからこの様に見事 に咲かせたのかもしれない。私の子供の頃の家の花壇にも、母は今と同じくらいに立派なコスモスを作っていたのだった。そして母は今、コスモスの花となっ た。母の墓は遠くにあって墓参はたまにしか出来ないけれど、こうして毎日コスモスの花を見、対話することで母と会っている。つくづく、母を墓の中にだけと どめておかないでよかったと私は喜んでいる。
 ずっと以前の秋、ある女性から便りが届いた。「私の別荘に、今コスモスが美しく咲いています。どうぞ見にいらしてください。」福井県のその日本家屋に伺 うことが出来たのは、コスモスが最盛期を越え、終わりの頃の花が鮮烈な有終の美を飾っている頃だった。華やかに燃え上がる紅葉の中で、コスモスはしっとり と静かにたたずんでいた。ところが半年ほど経ってから、その方にとってのコスモスは、流産をしたお子さんであると知った。そのことはご当人の浜 美枝さん がお出しになった『四季の贈物』(PHP)という本に書かれている。
 流産。私も二回の流産を体験している。あの悲しみは、子どもが私のからだから引き剥がされていく痛みと共に、一生私から消えないものだ。今子どものいな い私は、それでも優しい夫と支え合い、悲しみを乗り越えて生きている。浜さんは、素晴らしいお子様たちに恵まれたが、コスモスの花を育てることでそのお子 さんと対話をして、悲しみを喜びに変えていられる。きっと、あの美しい古い日本家屋に見事に調和する「秋桜」は今年も満開のことだろう。
 来年も今年以上にたくさんの花を咲かせるようにと祈りつつ、私はコスモスにたっぷりと水やりをした。こうして季節は繰り返し、永遠に巡る。私は生も死 も、肯定的に考えることを学んだが、教えてくれたのはこの自然だ。宇宙だ。蒼空があり、コスモスが咲き、命を再生する大地がある。こんな豊かな自然の中で 毎日を暮らしていると、自分自身がとても小さく感じられる。人間が思い煩うことなどなんて些細なつまらないことでしょう。「さあ雑念を取り払ってすっきり とシンプルに生きなさい。自分に囚われず他人を思いやって」とコスモスの花に託した母の言葉が聞こえてくる。


   10月
 籠と花鋏をもった私は、先を行く愛犬の尻尾の後に着いて山道に入る。野の草花を集め るのが目的だから、目をかっと見開いて通り過ぎる脇の土手をじっと観察する。草や木の陰でひっそりと咲く小さな一輪の花も見逃すまいとして。いいえ、そう いう花は手折るのではない。その存在と草花の名前を知るために、しっかりと見ておきたいだけなのだ。
 私が鋏で切りとる草花は群生しているものの一部。もちろん根を残し、なるべく花の枯 れていないものをとる。なぜなら、花が枯れると中にある種が地上に落ちて、次の季節に再び花となるからそこに残しておくのだ。たくさん集めるには、同じ所 からでなく別々の場所に咲いている中の一部を取るようにしている。
 薄紫のベルのような可憐なツリガネニンジン、穂の様に並んだ紫色の小さな花をつける ヤマハッカ。それに合わせるには、金色のエノコロや茶色いカヤツリグサがいい。どれもいわゆる雑草のように、土手や野原にはびこっている。
 アザミやイヌタデ、キンミズヒキやカゼクサ、初秋から秋にかけて、青く光る空や透き 通って流れる風のよきパートナーのように、自由でのびやかな草花が盛るのだ。
 こんな自然の贈物を籠一杯にあふれるほど抱え、私と愛犬はいそいそと家路を辿るが、 これから花集めの次に好きな私の趣味が 始まる。それは集めてきた花を室内のテーブルやチェストの上や、座敷の隅や床の端など、家中にくまなく飾ること。
作業が終われば出現するだろう室内の新しい表情を思うと、私の胸は恋人に逢うときのように高鳴る。

 花器はいわゆる花瓶だけではない。空き瓶や水差し、口が欠けたグラスやコップ、お茶 の缶、木の桶や味噌瓶、炭入れに金魚鉢、およそ水が入ればどんな容器にも花を挿すことができる。むしろ、花とおもしろい入れ物を組み合わせて作られる不思 議で奇抜でお洒落なアレンジは、室内をより特別な雰囲気にしてくれる。
 こんな雑器の花瓶に釣り合うように、私の家具はほとんどが木製で、使われた木はなか なか立派なものだが、古めかしく、傷がつき、年代物が多い。といっても高価なものでなく、古道具屋や、友人のお古やリサイクル品である。それらを修理して ていねいに磨き、カンナをかけ、ラッカーを塗り、新しい命を注いでやる。
 テーブルには、亡母の刺繍の入った帯を端から端に流してテーブルセンターに。着物を ほどいて暖簾に。レースのテーブルクロスは小さな窓のカーテンに。という風に、ふだん使っていないものを引っ張り出し、どこそこに活用して新しい生き場所 を探してやるのが私は好きである。モノにだって命はあるのだから。
 私と夫は一日中家で仕事をしているので、常に気持ちよく過ごせるような場造りに努力 している。朝は朝、昼は昼、夜は夜の快適な空間を作り出すこと。夜には間接照明が活躍してくれる。部屋が広いのでランプをあちこちに置く。その笠も、刷り ガラスや布製、竹製、和紙製といろいろな材質の笠をその部屋の雰囲気に合わせて使う。買ったのもあるが、手製ありもらい物ありリサイクルあり。
 室内を整えているとき、私はいつも中学生の頃の友との会話を思い出す。「大人になっ て家庭をもったらどんな風に暮らしたい?」「部屋に花をたくさん飾るわ。それからもし服に穴が開いたら、そこをアップリケでふさいだりして、決して捨てた りしないの」。友か私かどちらの答えかは定かでない。けれども彼女も今、家の内外を花で埋め尽くし、布切れで人形を作っている。少々ひねていたが、二人は 共に、〃三つ子の魂〃なのかしら、と苦笑する。
 今人々は、都会でも田舎でも憑かれたように花を栽培し、植物を植えている。それは人 々の心身が疲れているからだ。植物は常に成長していて、成長することは活力のある証拠。植物にあるその生命力は人間の心身によい影響を与えるから、疲れた 現代人は自ずと花を求め、木を恋しがる。それは自然である人間にとって自然なことなのだ。
 私も花を育てている。毎年その季節になるとおなじみの花が開いて再会を喜び、あるい はどこかに移動して消えてしまったり、その年によって様々な遭遇がある。その上自然は、この大地に自ずと種を蒔き、四季折々の花々をちりばめてくれる。私 は自然が咲かせてくれた花をことのほか愛でている。それは人間には決して創り出せないものだから。栽培、野生どちらにしても、深い緑の中に咲く、様々な色 合いの花はどんなにかこの宇宙を美しく彩ってくれることだろう。
 それを真似て、私も自分の居場所を自然の様に美しく飾るのである。自然の真似さえす ればなんでも美的になることが分かったから。自然のセンスや技巧は、はるかに人間の能力を越えている。自然を人工的に改造するなんて愚かなことだろうけれ ど、まねせずにはいられないほど、自然は美しい。




「私の私淑する女性たち」
 誰にでも、密かに目標にしている人や、その言動に心ひかれ、模範にしている人がいる ように、私にも何人かの私淑している方々がいる。自分より年下から同輩、そして先輩、大先輩と、多彩である。〃私淑〃とは、直接の教えを受けていないこと だから、歴史的人物から創作上の人物まで、自分の好きな人、誰でも何人でもよいという、誠に勝手で都合の良い人生の学び方である。もっとも、そのご当人に とっては預かり知らぬことで、知られれば迷惑甚だしいことかもしれないのだが。
 私が私淑する人々は、以前は歴史上の人物が多かった。というのも、私がベジタリアン になったとき、その精神的よりどころを過去のベジタリアンの言動に求めたからである。ロマン派詩人のシェリー、ダ・ビンチ、作家のバーナード・ショウやル イザ・オルコット。私は、彼らの書物を読むだけでは飽き足らず、その家や作品や足跡を訪ね歩いたものだった。ずいぶんな〃グルーピー〃であったものだ。 
 その人々のお陰で、私は自分の人生の一つのスタイルに自信を持つことができたが、今 度は長い目で見た生き方そのもののお手本を求めるようになった。そして幸いなことに、身近かに(と言ってもその存在は私には遠いが)大先輩の何人かの私淑 する方々を得ている。大先輩たちの人生も長い。そしてかくしゃくとして仕事に励んでいられる。
 知人のご母堂は高名な日本画家である。何回か拝見した個展の絵には、インドの大地と 民衆のめくるめく賑やかさと永遠の静謐さが、優雅な筆致と色彩から醸し出されている。日本画とインドという、この新鮮な調和を生み出した画家の目と心、そ れは丹波地方の厳しい風土の中に生きて培われているという。いつかの個展でのビデオの中で色に工夫を重ねながら、「私が変わらなければだめですね」と言う 彼女は秋野不矩さん、当時八五才。 その人の仕事や生き様を実際に目にし、生の言葉を聞く、つまり同時代に生きてこそ、本当の意味での生きた手本となる。 私は、そのためのもう一人の女性と会うことができた。 
 ヘレン・ニヤリングはアメリカ・メイン州に住んでいた。バイオリニストだったが、学 者の夫と共に田園に移住し、野菜を栽培して自給自足の生活を営んできた。二人は家も手作りした。夫九〇代、ヘレン七〇代のときには二軒目の家を。それは二 階建て石造りの、シンプルだが非常に美しいものである。
 夫妻は五、六〇年に渡り、賢い田園生活のモデルとなってきた。それは数々の本で紹介 されているのだが、実際に取材のために自宅を訪れ、そしてご本人に会った。当時九〇才になるヘレンは、健康で若々しく驚くほど軽い身のこなしで客のための 食事を調え、機関銃のような速さで旧式のタイプライターを打つのだった。 
 八〇代、九〇代で健康を得、泰然と自身の道を歩む、それは年齢の結果ではなくプロセ スなのであろう。大事なのは、そこに至つてもとどまらず、さらに続けていく道程であるのだろう。これらのお手本を、私はどう生かせるだろうか。