こ の月あの時


© Edward Levinson


「二人六脚」
「エドさあん、ご飯よう!」リビングの向かいの夫の仕事場に向かって私は大声を張り上 げる。「はあいっ。今行きます!」と明るくうれしそうな〃よいご返事〃が、デッキの向こうから響き、風に乗ってキッチンに入ってくる。
 私はパソコンに向かい、彼は暗室に籠り、集中し た午前の仕事の後の昼食。陽射しはちょうど雲の影をデッキに落としているから、その中にチェアとテーブルを引き寄せて食卓にする。献立はたいてい一皿に盛 れる程度の簡単なものとサラダや汁物。ただし、菜園から摘んできた何種類もの野菜を洗い、刻み、調理するから時間はけっこうかかっている。
 なかなか私の呼び出しがかからないと、夫はイン ターホンでたずねてくる。「食事はどうかい?」すると私はいささかいらついて、「私はまだ終わらないの。手が空いたのなら何か作って」と応答する。すると 夫は「はいはい」と台所に立つ。私たちの分業には境界はあまりない。
 こんな二人三脚の生活を始めてからかれこれ二〇 年を越えた。しかし私たちのタイアップは、四本の足を三本にするためではない。一人の足を三本にするためなのだ。そうすると生活や仕事を安易にそして実り 多きものに出来るのである。
 実際、こんな人里離れた田舎での暮らしは一人で は出来やしない。いや、している人々もいるから、それは私のひ弱さと甘えかもしれない。けれどもエコロジーを目的に移住してくると、いろいろな問題が起き てくる。それを解決するには一人よりも二人、二人以上がやりやすいのは事実なのだ。どちらかに欠け、あるいは豊富な技術や知識、そして肉体的な力をもちよ れば、ずいぶんと大したことができるだろう。喜びや希望、恐れや不安を分かち合えば、精神状態はリラックスする。
 いささか私的な枠を越えたことをやらかす場合、 私たちはたいてい二人で立案してそれを実行する。状況判断をする場合、男の目、女の目、第三者の複眼で見ることができるだろう。生活の些細なことでも自分 以外がいるとよい。「電気がつけっぱなしになっていた」「ガスの火が大きすぎる」「これには○○が入っているから使わないでね」などと注意されたりしたり すると、エコロジカルな生活はより一層正しいものとなるのだ。
 自分自身では決めかねていること、家や庭を造る こと、太陽光発電機や風力発電機を使うこと、コンポストトイレの導入、そんなことからそれぞれの仕事の内容まで、常に対等に話し合ってやってきた。それら はすべていい結果になっている。
 夫と妻、主人と奥さんの立場を融合しそれを超 え、社会的な性差を超えてやっているつもりの私たちだが、子供がいないからできるのかもしれない。私たちは課せられた運命を受入れ、その状態の最良を保つよう努力していかなければなら ないと思う。今の家族や社会との関係を肯定できるように。地球と自分の関係を肯定できるように。『森の生活』のソローは、人間と自然との関係は美しくない と嘆いたが、最悪になってしまった今、美しくなるようにしたいものだ。と、田舎に住んでいるが、自然はなかなか厳しいもの。台風に土砂崩れ、冷害や干ばつ を起こして作物を凶作にする。そうして人間に反省を迫る。「マイ・バッグもった?」「今日は乗用車でなく、軽ダンプで行こう?」買い物に出る度にこう確認 し合って私たちの二〇年が過ぎた。だが世の中は……。世の中はともかく、私たち個人は気持ちよく暮らす努力を一生懸命しても、し過ぎることはない。それ は、ささやかな幸せをもたらしてくれるし、やるべきことはやるという精神的な爽快感を味わわせてくれる。
 華奢を排してなおかつ貧しくなく豊かに生きるこ と。これをモットーにして私と夫はあれこれ工夫してきた。それは何かを生み出すという創造の喜びに満ちている。創造するには多すぎるものがあっては駄目 だ、何もないところにこそ生まれる。




© Edward Levinson


子どもの頃には6年間も日曜学校へ通っていた。家 の敷地内に父が建てた集会場に、アメリカ人一家が宣教にやってきたのだ。自宅から歩いて10秒の近さだった。おとなになってからは苦しい時の神頼みしかし ない無信心な私なのに、クリスマスが来る十二月に入ると落ち着かなくなる。世界の各地にいる家族、友人、知人にカードやプレゼントの発送をするのだ。キリ スト教の聖典であるクリスマスを祝わない人には、「シーズンズ・グリーティングス」。形だけ真似て、室内にろうそくのデコレーションもする。外には樅の木 があるので、シンプルな豆電球もともす。それにしても最近の町中や住宅や、田舎の畑にさえ大がかりにともされるイルミネーションの派手さはいかがなものだ ろう。 
 そんな日々の雰囲気に乗じて、イブになると教会 のミサに参加する。聖歌を歌うのは楽しい。日本であれ外国であれ、そのときにいる町のどの教会でもいい。一歩教会の中に入ると野次馬精神が消え、厳粛な気 分になるのが非日常的で、だらりとした私には、ぴりっとしたよい薬となる。
 今までで比較的印象に残るのは、東京・六本木の 聖フランチェスコ会のミサ。気紛れの私には珍しく、何年か続けて参加した。もっともこの教会の参拝者はほとんどが外国人なので、聖歌はたいてい英語で歌わ れる。そこでの特徴は、キリストの生誕の場面が人形で展示されていること。楽しく微笑ましく、厳粛さよりもいかにもバースデーのお祝いに立ち会っていると いう感じがいい。
 その装置は、派の創始者フランチェスコの案だと いう。詩や音楽が好きだった、彼らしい〃演出〃である。実は私は、以前からフランチェスコに興味を持っていた。それで彼の生きた町、イタリアのアシジを何 度か訪れた。というのは彼は、太陽や月や星から風や水や大地にいたるまで、この世の中のすべての存在を平等に見、兄弟、姉妹と呼んで慈しんだというからで ある。そして動物や鳥にもお説教をしたのだという。なんと無邪気な、ユーモラスな人なんだろう、と思ったのだ。そして彼を私の著書『ベジタリアンの文化 誌』や『ベジタリアンの世界』に登場させた。 
 考えてみれば、このような人こそ、この二十一世 紀の荒廃した地球に必要な人材なのではないかしら。でもそんな態度を他人に委ねずに、せめてその精神だけでも学ぼうと、伝記などを読んだのだった。彼は環 境保護の守護者として認定されている。
 クリスマスを見送ると、今度は近所のお寺からお 招きがある。除夜の鐘撞きである。しっかりと防寒具に身を固めて行ってみると、大きな焚き火が赤々と燃え、少しも寒くない。長い竹棒の先に刺したつきたて のお餅が、焚き火の火で香ばしく焼かれている。甘酒と一緒にふるまわれ、鐘撞きの列に並ぶ。闇の中に、久し振りで故郷に戻った人々の笑顔が溢れる。「おめ でとう!」と口々に。ここもまた、厳粛さというよりは、一年を再び同じ所で送り、迎えられたお祝いという喜びの場である。それは誰か特別な人のためでな く、生きとし生けるもののためである。 
 こうなると、初詣でにも行かざるを得ない。今年 はどこの神社に行こうかしら。まったく私は典型的な日本人だなあ。これといった信仰も持たないのに、儀式をその場その場で都合良く、軽くやってしまうなん て。
 けれども誓って言えるのは、自分のことはもとよ りだが、世の中の幸せと平和を強く願っているということ。いつも自分が恵まれたことに感謝し、他人にも分かち合おうと思っていること。願ったり、祈るだけ は簡単……。ならばよけいに思いを込めよう。