美しく暮らしたい
籠と花
鋏をもった私は、先を行く愛犬の尻尾の後に着いて山道に入る。野の草花を集めるのが目的だから、両目をかっと見開いて通り過ぎる脇の土手をじっと観察す
る。草や木の陰でひっそりと咲く小さな一輪の花も見逃すまいとして。いいえ、そういう花は手折るのではない。その存在と草花の名前を知るために、しっかり
と見ておきたいだけなのだ。
私が鋏で切りとる草花は群生しているものの一部。もちろん根を残し、なるべく花の枯
れていないものをとる。なぜなら、花が枯れると中にある種が地上に落ちて、次の季節に再び花となるからそこに残しておくのだ。たくさん集めるには、同じ所
からでなく別々の場所に咲いている中の一部を取るようにしている。
薄ピ
ンクののベルのような可憐な蛍袋、穂の様に並んだ小さな花をつける山ハッカ。それに合わせるには、緑色のエノコロや
白いクローバー がいい。どれもいわゆる雑草のように、土手や野原にはびこっている。
アザ
ミやノコギリソウ、ムラサキカタバミやカゼクサ、夏から初秋にかけて、青く光る空や透き通って流れる風のよきパートナーのように、自由でのびやかな草花が
盛るのだ。
こんな自然の贈物を籠一杯にあふれるほど抱え、私と愛犬はいそいそと家路を辿るが、
これから私の次に好きな趣味が始まる。それは集めてきた花を室内のテーブルやチェストの上や、床のの隅や端な
ど、家中にくまなく飾ること。終われば出現するだろう室内の新しい表情を思うと、私の胸は恋人に逢うときのように高鳴る。
花器はいわゆる花瓶だけではない。空き瓶や水差し、口が欠けたグラスやコップ、お茶
の缶、木の桶や味噌瓶、炭入れに金魚鉢、およそ水が入ればどんな容器にも花を挿すことができる。むしろ、花とおもしろい入れ物を組み合わせて作られる不思
議で奇抜でお洒落なアレンジは、室内をより特別な雰囲気にしてくれる。 こんな雑器の花瓶に釣り合うように、私の家具はほとんどが木製で、使われた木はな
かなか立派なものだが、古めかしく、傷がつき、年代物が多い。といっても高価なものでなく、古道具屋や粗大ごみ置き場や、友人のお古やリサイクル品であ
る。それらを修理してていねいに磨き、カンナをかけ、ラッカーを塗り、新しい命を注いでやる。
テーブルには、亡母の刺繍の入った帯を端から端に流してテーブルセンターに。着物を
ほどいて暖簾に。レースのテーブルクロスは小さな窓のカーテンに。という風に、ふだん使っていないものを引っ張り出し、どこそこに活用して新しい生き場所
を探してやるのが私は好きである。モノにだって命はあるのだから。
私と夫は一日中家で仕事をしているので、常に気持ちよく過ごせるような場造りに努力
している。朝は朝、昼は昼、夜は夜の快適な空間を作り出すこと。夜には照明が活躍してくれる。部屋が広いのでランプをあちこちに置く。その笠も、刷りガラ
スや布製、竹製、和紙製といろいろな材質のをその部屋の雰囲気に合わせて使う。買ったのもあるが、手製ありもらい物ありリサイクルあり。
室内を整えているとき、私はいつも中学生の頃の友との会話を思い出す。「大人になっ
て家庭をもったらどんな風に暮らしたい?」「部屋に花をたくさん飾るわ。それからもし服に穴が開いたら、そこをアップリケでふさいだりして、決して捨てた
りしないの。」友か私かどちらの答えかは定かでない。けれども彼女も今、家の内外を花で埋め尽くし、布切れで人形を作っている。少々ひねていたが、二人は
共に、〃三つ子の魂〃なのかしら、と苦笑する。
我が家はたんぼと森に囲まれて丘の上にポツンと立つ木造家屋だ。そこに、風や太陽や
雨がふんだんに入り込む。季節が移ると光が変わり、その季節の色彩を外から内に運んでくれる。すると部屋は天然の照明で美しく輝くのだ。
この天然の美しさを損なわないように、なおかつそこで生活を営む人間の自由さを保て
るように部屋を整える工夫をするとーー整理整頓をして空間をとるとーー使いやすくなおかつ美しさが生まれるだろう。
田舎だから出来るのではない、どんな場所でも、その環境のよいところを見出してそれ
を広げる。逆に悪いところは躊躇せずに直す。ことにごみの放置やポイ捨ては、公共であっても私的な場所であっても慎みたいものだ。環境悪くして自分の場所
だけが美しくても仕方がないもの。 私たち人間が自然の生き物であるなら、棲む場所も自然の要素の多いところが最適なのだ。だから家の中にも、それがコン
クリートの中であればあるほど、自然の要素を取り入れる工夫が必要ではないだろうか。私たちは、人が〃住む〃と書いて人を家の主にしているが、ほんとうは
〃棲む〃のが正しいのではないだろうか、そう、木を妻すなわち伴侶として。木を自然のシンボルとして。
今人々は、都会でも田舎でも憑かれたように花を栽培し、植物を植えている。それは人々の心身が疲れているからだ。植物は常に成長していて、成長すること
は活力のある証拠。植物にあるその生命力は人間の心身によい影響を与えるから、疲れた現代人は自ずと花を求め、木を恋しがる。それは自然である人間にとっ
て自然なことなのだ。
私も花を栽培している。毎年その季節になるとおなじみの花が開いて再会を喜び、ある
いはどこかに移動して消えてしまったり、その年によって様々な遭遇がある。その上自然は、この大地に自ずと種を蒔き、四季折々の花々をちりばめてくれる。
私は自然が咲かせてくれた花をことのほか愛でている。それは人間には決して創り出せないものだから。栽培、野生どちらにしても、深い緑の中に咲く、様々な
色合いの花はどんなにかこの宇宙を美しく彩ってくれることだろう。
それを真似て、私も自分の居場所を自然の様に美しく飾るのである。自然の真似さえす
ればなんでも美的になることが分かったから。自然のセンスや技巧は、はるかに人間の能力を越えている。自然を人工的に改造するなんて愚かなことだ。けれど
も、植物も人間もより快適に生きられるよう、人間の世話も必要なのはいうまでもない。