こ の月あの時


© Edward Levinson

風を見る
  風を見た人はいるでしょうか。風なんて見えるはずはない、と思うでしょうか。けれども風は、木の葉を震わせ、雨や雪を飛ばし、花の蜜の香りを運んで存在を 主張しているのです。実際、若葉のドレスをまとった楓の枝々が、その身をもだえさせて五月の光の中で踊っているのを見ると、それは風の化身であるのがわか ります。葉を長く伸ばした稲田や麦畑が海原となり、緑のさざ波を立てているのは風がそこにいる証拠。タンポポの綿毛が羽虫のように空を飛んでいるのを見る と、ああ今、風に乗っているのだなと思い、白いノイバラの花びらがはらはらと舞い落ちると、天から風が降りているのだ、と知れるのです。 
 それから風はどこに行くのでしょう。その行き先を追うとそれは旅になります。モスクワの市街。冬ではないのに雪のような白いものが、銀色に輝いて町を覆 うように飛んでいます。それはコットン・ツリーの文字通り真綿のような花でした。その大木が街路樹となって連なっている様は壮観です。花がまっすぐ下に落 ちるのでなく四散するのは風の仕業。マレーシアの海辺のパームツリーは、強い雨と風に揺すられて弓なりになっていました。雨が止むと大きな月が上がり、風 はそこを去り、パームツリーは再びまっすぐに立ちました。風はさらに旅を続けて中国へ。   黄河の河畔の大きな柳の木。水の流れを伝ってやってきた風が 柳の木の回りをいったりきたりして木をじらし、枝と戯れていました。私も枝々や風と楽しく遊んできました。今でも柳や風の笑い声が心に響き、そうそう旅に は出られない私を慰めてくれるのです。 
 風は私たちの目にはさやかに見えないけれど、正体を見せずに確かにそこにいて、いろいろなことをやっているのですね。風なんて見たこともない、といわれ ながらしているそのことは、なんとすばらしい仕事なんでしょう! 自己を顕示することもなく、行っていることを自慢するでもなく……。それにひきかえ自分 を省みて、私は河畔の柳のごとく、マレーシアのパームツリーのごとく、うなだれてしまいました。この場合、楽しくでなく心痛の思いで。 
 他人に知られずによいことをしている……それはボランティアの心にも通じます。ボランティアとは〃自ら進んで〃必要なところに必要なことをする、もてる ものをもてないところに出す、と私は解釈しているのですが、他の人や自然を、楽しませ、慰め、善いものにするための仕事を黙々とする人々は、心地好い風、 そよ風と同じだと思います。 
 最近日本のボランティア活動が盛んになったことは、私個人としても大きな喜び。というのは、二〇年も前にイギリスに住んでいたときに、数々のチャリ ティーやボランティアの活動を知った私は、日本に帰ってきてから少しずつ自分でも行動していたのです。インドやアフリカの飢餓のための食事会やチャリ ティーコンサート(世界的ウード奏者ハムザ・エル・ディンを迎えて)。リサイクルバザーをしてアジアへの寄付。当時はまだ小さく個人的にポツポツとしかや れませんでしたが。 
 それがどうでしょう。今や、ボランティアが学校や会社の〃必須科目〃になろうという勢い。高齢者もボランティアをすると、介護保険の点数になるとか。
 海外にも大勢の若者たちがボランティア活動のために出かけて行きます。海外で働いているそんな若者たちから便りをいただくと、私自身がしたくてもできな いことをやっている〃風の子〃たちに感謝をしたくなるのです。やっと日本も精神的に〃先進国〃の仲間入りをしたのだ、と。私たちは飽衣飽食、安全平和の中 で生きることができるのだから、それを少しでも分かち合うことが私たちの役目なのでしょう。 
 人に知られなくても見られなくても、風のように無欲にさわやかによい仕事をしている人々は、きっと誰かがどこかで見ていることでしょう。誰が風を見たで しょう? 私は見たことがあります。思い出してください、あなたもきっと見たことがあるだろう〃風〃を、会ったことがあるだろう〃風の子〃を。