こ
の月あの時
Photos ©
Edward Levinson
木
枯らし一番。乾いた枯れ葉が積み重なって、温かい床を作っている。けれども無情にも、冷たい夜露が結晶になり、葉っぱを凍らせてしまう。一夜にして床を氷
のベールで覆った霜は、柔らかい朝日の中で勝ち誇ったように輝いている。 でも私は知っている、表面は冷たい土の奥が温かいのと同じように、堆積した葉の
中はとても温かく、そこで沢山の微生物の生命が育くまれていることを。その霜の冷たさは、鞭に変わった愛情であることを。だからホウレンソウも白菜も、冬
の野菜はどれも、霜に包まれると甘みが増すのだ。どこからが温かさでどこからが冷たさなのか。どんなことでも、両面の境を見極めることは難しいのではない
だろうか。
ゆく時
とくる時。この境目はどこだろう。夜中の十二時。十二月三十一日。一月一日。ところが私は、時も年も、ゆくのもくるのも、決められた数字とはあまり関係が
ないようにしたいと思っているのだ。それはきっと、私が、時のゆくのを拒み、くるのを恐れているからかも知れない。だって時の進み方はあまりにも早過ぎる
のだもの。「ねえ、もう少し待って……」「ねえ、もう少しゆっくりして……」と頼みたい。
だから
私は時々、〃時の儀式〃をやらないことがある。儀式を済ませなければ、時も年もそのままだと思いたいがために。その方法は、年末年始に自宅を、日本を離れ
る旅行に出るのだ。といってもよほど未開の国に行かない限り、世界中どこの国でもクリスマスや新年の行事がある。でもそれを他人事と傍観していると、自分
だけはやり過ごしているように感じるのだから勝手なもの。
最近
は、〃新しい家族〃が家族的行事を嫌って旅行に出ることが多いと聞く。私の場合、実はその反対だ。家族の集まりを持ちたくても、集まる家族を持たない寂し
さを紛らわせるため、というのが本音。けれどもアメリカに夫の親密な家族がいる。広いアメリカ大陸の隅々から、その日、その時を目掛けて全員が飛行機で飛
んできて、笑い声と抱擁と、たくさんの贈物と強い家族の絆。こんな時には家族が多いのっていいな、と心底思う。持たないものだから思うのかもしれないけれ
ど、世間の家族のありようを見ていると、今ある家族をもう少し大切にしてほしいもの、と願うのだ。
もう一つ、時がゆくのを阻むのは思い出。アルバムを見ていると、タイムスリップをしたかのように
〃あの時〃に戻れる。写真はモノクロームがセピア色に変わり、カラーが退色してぼやけてしまって。それでもそこにあるのはいつかの私。不安もなく希望に燃え、その時を楽しみ、ただ若さでもって突き進んでいた……。
そう
だ、この写真のままの私を続けていけばいいのだ。ゆく歳もくる歳もない、このままの私。希望にあふれ、若々しく、過去でなく未来を見つめて……。と思って
見ていたら、セピア色は鮮明なモノクロームに戻り、色褪せたカラーは華やかに彩色された。けれどもそれはやっぱり写真でしかない。
現実に
戻っていまの私が未来を見ると、そこにあるのはもはや薔薇色ではなくいぶした銀の塊ーーこれまでの人生の凝縮した……。とはかっこいいけれど、そういう風
にするにはやはり、二〇代から四〇代の最も輝かしい時にすばらしい体験をし、一生忘れ得ない思い出を作ることにかかっているだろう。
実は私
には、もう一度帰れるものならあそこに帰りたい、と願うほどの強烈な青春を過ごしてきた体験、そして自負がある。だから本当は、ゆく年もくる時も、自信を
持って送り、迎えることができるはずなのだ。それでもなお、今がすばらしい現在であるように心して暮らしてゆきたい、時に追いかけられてうろたえずに。
雪や霜の下にあっても土や草は、そして野菜も虫も、時がゆくのもくるの気にかけず、泰然として彼らだけにある今を力の限り生きているではないか。
さようなら、一生に一度のすばらしい時をくれた2007年。ありがとう!
こんにちは、これから出合う幸せたちが待つ2008年。どうぞよろしく!
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