こ の月あの時



Photos © Edward Levinson

  春は突然にやってくる、これが私の毎春の印象。膨らむ木の芽を見守りながら、もうじきもうじきと思っていても、ある朝突然、春になっているのです。向こう の山の若草色の薄絹のような梢の間で、白い大ぶりの木連の花が満開。やがて次々に、桜、レンギョウ、キブシ、ツツジと開花が続きます。 遠目にも春がやっ てきたのですから、足元では春がおしゃべりをしているような賑やかさ。何種類もの菫の花が、オオイヌフグリやタンポポやペンペングサやカラスノエンドウの 野の花と一緒に、サワサワサワサワと。そんな春の風景は、絹地に描かれた友禅染めのよう。 
 その華 やかな着物を身にまとい、私の暮らしも少しおしゃれにしようと思います。からだの中を春一番の新鮮な風と清浄な水で満たす。心の中を優しさと楽しさ、明る さで照らす。家の中を光と風で一杯にする。その内側をもって外側に働きかけるなら、外側も同じようにすることができるかもしれません。 冬の冷たさと暗 さ、辛さと困難を乗り越えてきた私たちですもの、大いに春の暖かさと楽さかげんを満喫しましょう。苦あって楽あり。冬は限られたものだけがその苦難を回避 できるけれど、春は、誰にでも平等に恩恵をあたえてくれます、動物にも植物にも、鳥にも虫にも。太陽も水も風も、誰彼分け隔てなく照り降り吹きつけます。 そうして私たちは、からだや五感に快感を得るのです。
 

  けれども……、こうして自然の恵みを存分に受けていると、冬のさなかに苦労をした人々に心がいきます。大震災や災害で家を失い、暮らしの手段をすべて失っ て、厳しい寒さを精神力だけでしのいできた人々。雪の降る日本海で、坐礁したタンカーから流れ出た重油を、一本の柄杓と一本の腕で汲むという重労働をした 人々。その人たちにも春はやってきたでしょうか、心とからだの中にまで。 せめてこの太陽と春風の温さが、凍りついた人々の心を溶かし、固くなったからだ をほぐすことを願いましょう。遠くからは、そうした祈りしかできない無力な自分を恥ずかしく思うのですが。 
 悩みの ある若い人々が訪れます。ぼおっとした春の農村風景の中にいると、きっと気分もおおらかになるのでしょう、ずいぶん元気になります。 若いときはとかく〃 自分〃にこだわりがち。自分がどうするか、自分がどう考えるか、自分が他人からどうされるかで傷ついたり苦しんだり。「自分から少し離れてみたら。そして 回りにいる他人のことを少し考えてみたら。ずっと楽になるわよ」と私はアドバイスをします。ある人はボランティアをしたり、ある人は趣味や勉強を始めた り。すると少しずつ、自分を縛っていた鎖がゆるんでくるようなのです。 
 この世の中では、自分一人だけでは生きていけないことは自明の理。だから自分も大切だけれども、もう半分は他人や社会のことも考えなくてはならないのではないかしら。でもどうしても、目前にある自己の快楽や利益を追ってしまうのが凡人の悲しいところ。
「ほら、あの花に止まっている蝶々を見て。何をしていると思う?」
「花の蜜を吸っているんでしょう。」
「ええ、でもそれだけではないのよ。蜜を吸うのは自分のため。でもね、花粉を運んで、別の花を咲かせる仕事もしているの。」
 彼女は恥ずかしそうな顔をして下をむいてしまいました。 
 めくる めく饗宴の繰り広げられている野原は、こうして私たちにいろいろなことを教え、学ぶための教材になってくれています。これで今日の授業は終り。さあ開きま しょう、春の祝宴を。野の草も木々も花々も、春の微風にゆら〜りゆら〜り。私たちも誰に気兼ねすることもなく、ぼんやり、のんびり、だらり、うっとり。い つのまにか、からだも心もとろけだし、軽々として野の上を飛んでいる、蝶々のように。