"チェルノブイリの子どもたち"と共に 1992年 アーカイブ


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1992年の昔のことですが、私と夫は、チェルノブイリ原発事故の被災者である子ど
もたちを、その健康状態向上のために、わが家にホームステイしていただきました。
2011年3月11日のフクシマ原発事故後、ことに子どもたちの被曝について大いなる心配があります。今から19年前の事情は現在までに変化していることが、その後判明していますが(映画「チェルノブイリ・ハート」など参考)、子を思う人々の心情を思うとき、あの頃のことを知って頂くのも何かの一助となるかと思います。
チェルノブイリ事故の多数の犠牲者から、私たちは何も学ばなかったのか、と痛恨のいたりです。
当時のつたない私の文章、メモですが、新聞記事と共に再録しますので、お読み下さい。また、科学的論証、データや数字など当時と現在には相違もあるかと思いますが、ご容赦下さい。フクシマの子どもたちを救うため何をすべきか、何が出来るか、どんな小さな可能性をも無視出来ないと考えます。当時のチェルノブイリで被曝した子どもたちが、どのような状態で、私たちが何をしたかを知っていただくことも無益ではないと思います。
彼らは現在30歳前後になり、健在であることに喜びを覚えます。(鶴田静)

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内容

1.  "チェルノブイリの子どもたち"と過ごして`
    「母の友」福音館書店 1993年7月号掲載  

2.  ベラルーシ共和国 原発被災地訪問記  
     鶴田静/吉沢弘志  

3. 92年チェルノブイリの子どもたちの千葉県鴨川市に保養ホームステイの報道記事など 

1.
"チェルノブイリの子どもたち"と過ごして (鶴田静/エッセイスト)
「母の友」福音館書店 1993年7月号掲載


❁ 
健康回復の手助けを

「オカーサン、どうぞ!」
 金色の長い髪を風にひるがえして、わが家の裏の野原から戻ったナターシャとオーリャが、両腕にいっぱいの野の花を私に差し出す。私は胸が熱くなる。彼女たちが散歩に出る度に摘み、私にくれる花束を見ると、いつも彼女たちと初めて会ったときが思い出されるのである。
 1992年4月11日、私と夫はわが家にホームステイする、9歳から12歳の〃チェルノブイリの子どもたち"5人と通訳を1人、新潟空港で出迎えた。
 チェルノブイリ原発事故当時の風向きのために、放射性物質の70パーセントが隣国のベラルーシ共和国に降下し、国土の40パーセントが汚染された。その汚染地域に200万人の国民が住み、そのうちの80万人が子どもである。いまだに汚染度が非常に高い農村から、彼ら5人は40時間の長旅をしてきたのである。
 私が、自分で作った小さな花束を一人一人に差し出すと、彼らは皆一様に花を顔に当て、その香りを胸一杯すいこんでいる。そしてわが家に着くまでその花束を、その胸、その顔から片時も離さなかったのだ。子どもたちは、花の香りを嗅ぐことさえ禁じられていたのかもしれない、と私はそのとき初めて放射能汚染の現実を生の感覚で思い知った。 
 子どもたちは疲れているだろうに、その弱々しい顔に優しい笑顔を作り、むしろ重い責任感で緊張し、ふるえている私たちを慰めてくれるのだった。
 放射能汚染地域では、抵抗力の少ない子どもたちの免疫効果が低下し、白血病、甲状腺や内臓の癌、呼吸器疾患、腎臓病などにかかる子どもたちが増加している。また、入院治療するほどではないが、甲状腺の異常、貧血、鼻血、吐き気、頭痛、腹痛などの症状に日常的に苦しんでいる子どもも多く、そうした子どもたちが非汚染地帯で四週間程度過ごすと、その後数力月から一年ほどは元気で過ごせるといわれている。
 そこで子どもたちを国外で保養させ、健康回復の手助けをしようという「保養里親運動」が、世界の15番目の国として昨年から日本でも始まり、今年(1993年)の春までに、合計80人の子どもたちが日本各地にやって来た。日本側の窓口も複数になり、これから迎える夏休みも含めれば、今年だけで100人を越える子どもたちが各地でホームステイをすることになるだろう。

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里親募集を新聞で知って

〃チェルノブイリの子どもたち"を里子として迎えようと決心したのは、私たちに限っていえば、それほど熟慮した結果ではない。私と夫は常々、子どもは社会の子であると考えてきた。救いや助けが必要な子どもには実の親でなくても、救いの手をさしのべることができればいい、と思ってきた。だから他人の子を育てたり世話したりすることには抵抗は感じていない。
 私たちは今この日本で、何一つ不自由なく生きている。自由も人権も平和も、そして豊富な物質も金銭も、健康もある。しかし世界を見れば、これらの一つもない子どもたちの何と多いことか。そのような状態を生み出してしまった一端の責任は私たち大人一人一人にもある。ならば贖罪として、その苦しみを減らすための小さな力となりたい……。
 そのために折に触れ、絵画展やイベントを行って、募金活動をやってきた。そのようなときに、"チェルノブイリの子どもたち"の畢親募集を新聞で知ったのだ。あの原発事故の犠牲者であるいたいけな子どもたちが、わが家で一カ月間を過ごせば、私たちがほんの少しの労力を提供すれば、わが家の畑になる新鮮で安全な野菜を分け合えば、それで子どもたちの健康状態がよくなるのだ。こんな簡単なことで私たちでもお手伝いができるとは何という喜びであろうか。今までは募金という形でのお手伝いだったがこれは寝食を共にしての、丸ごとの命を預かってのお手伝いである。これは"やるべきことだ"と直感し、求めていたものがついに見つかった! というような嬉しさだった。
「私たち、里親をしてみましょうか? できるかしら?」
「できるよ。子どもたちと一緒に暮らせるなんて楽しみじゃない」
 なにごとにも怖じ気づくことのない夫の即答を得て、日本の窓口の一つ「チェルノブイリ救援基金」(東京)に連絡した。このようなことをするのは運動体でないと駄目か、と思っていたのだが、個人でもいいこと、そして受け入れ家庭に子どもがいるのは理想だが、いなくても可能であるということが嬉しかった。
 とはいえ〃チェルノブイリ"という重圧があることはあったし、"チェルノブイリの子どもたち"が病院での治療に来日したことはあっても、一般の家庭で"普通の"市民として過ごすことは前例もなかったので、どうなるのか、皆目見当はつかなかったのだ…:・。
 気がかりだったのは、受け入れの条件に、ホームステイの間に「地域との連帯を持ってほしい」とあったことだ。もちろん、一カ月間暮らすには、地域との結びつきは不可欠である。
 しかしこれは単なる「国際交流」式ホームステイではない。「チェルノブイリ」「放射能被曝」「原発」という重い主題を抱えている。私たちの住むこの小さな農村で、そのような事柄がどう受けとめられるのだろうか。私たちは、個人的には環境問題や人権問題などで活動しているが、何の組織も持たず、また属してもいない。里親たちの中には、明白な反原発運動の一環として、組織的に受け入れているところもある。組織の支えのない私は、その点が少々心細かったのだが、夫は「だれが何と言おうと、彼らは我々のお客なのだ」と自信たっぷりだ。
 そうだ、何よりも原発を憂えているんだし、その犠牲者に力を貸したいのだ、と私も覚悟を決めた。そして夏休みから全国的に始まるホームステイのいわば実験台として、私たちが日本で初めての受け入れ家庭になったのである。

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多くの人たちの協力のおかげですべてがうまくいった。友人たちの協力と参加を得て、チラシを作り地域に配った。近くの小学校には、子どもたちを授業に参加させてほしい、と依頼した。そして、チェルノブイリ被災地の子どもたちの描いた絵や写真を展示して、実情を伝え、協力を仰いだ。すると実に多くの人たちが"チェルノブイリの子どもたち"を支援しよう、と集まってくれたのである。思いはだれも同じであることがわかり、私は自分の杷憂を笑った。
 中でも、お年寄りの熱意には圧倒された。自分の家で栽培したキャベツを一つバイクに乗って届けてくれる人。大きな牛乳罐入りのしぼりたての牛乳、生みたての卵、プランターの花、お米、海からの魚……およそ地元の産物という産物が届けられる。
 老人会で作った手芸品の贈り物、そして広島原爆のヒバクシャからの励まし。遠くにあって苦しんでいる子どもたちを、今自分のところに迎え、体と心を癒してほしい、という好意が山ほど寄せられたのである。
 普段は夫と二人でいささか広すぎる9部屋の古民家が、通訳を交え8人家族になり、その上、ボランティアの人々や遊び相手の子どもたちも一緒で、10数人以上の所帯になって、手狭に感じられた。(8月からの全国的な受け入れでは、地域によっては、子ども2人ずつの分宿方式で、里子を迎えた家庭もあった。)
  食事作り、掃除、洗濯を手伝ってくれたボランティアの人たちは、地域の人と遠方から駆けつけてくれた友人や知人たち。中・高生もやって来た。子どもたちの滞在費用は航空運賃も含み、一人当たり約20万円(全国平均の数字
-もっと少ない場合もある)だったが、各方面からのカンパが集まり、ほとんどの受け入れ家庭がカンパで賄えたという。

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食事作りには注意した

 私がいちばん心を砕いたのは、食事作りだ。放射能と添加物・農薬などは相乗作用を起こすともいわれており、材料は無添加・無農薬のものが望ましい。抵抗力をつけるにはビタミン類、つまり新鮮な野菜や果物が必要である。彼らの故国では食料の90パーセント以上が汚染されているから、なるべく農薬に汚染されていないものを出したい。無添加・無農薬食品は自家製のもの、または自然食品店や共同購入などで入手できた。
 まったく日本食を食べない子、ひじき煮やご飯、漬物などを喜んで食べた子など、嗜好は個々に少しずつ違ったが、全員帰国までに体重を2、3キロ増やした。
 男の子も女の子も積極的に料理を手伝った。じゃがいもをすりおろして焼く"パンケーキ"は男の子の得意料理。キュウリとトマトのサラダは女の子のお得意。そして皿洗いは到着の日から彼らが進んで自分たちの仕事にした。台所での共同作業は、子どもたちと心を通い合わせるとてもいい方法だった。子どもたちは片言の日本語を覚えた。私たちはそれよりもっと少ないロシア語しかわからない。しかし、どうだろう、心はまったく通じるのである。
 私たちに甘えもすれば、いたずらもする。私たちの言うことに耳を貸さないこともある。うんちやおしっこをもらす。怒って泣いて喧嘩して笑って.:…あたりまえだが、子どもは子どもである。
 だが幼い子どもたちだが、彼らは個としての強さと、自己の尊厳を重んじる意思を持っていて、子どもに接していると思っていた私は、ときどき、断固とした決断に出合ってうろたえた。
 わが家に滞在している間に、健康面でちょっと心配させたのは、女の子一人だけだった。いちばん華著なナターシャは故国では鼻血に苦しんでいた。到着した翌日、歓迎に訪れた何十人もの人たちの前で、鼻血を出したのである。真っ白なブラウスが赤く染まるのを見て、私の心臓は一回転した。そして見てはならないもの、だが見るべきものを見たように感じた。"チェルノブイリの子ども"であるという現実……。
 故国では日常的だったからか、ナターシャは自分で冷静に処置をした。そして幸いなことに、その翌日から鼻血は出なくなった。

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子どもたち同士の交流

  夏休み前に来た子どもたちは、近くの小学校に通い、音楽や体育、図工、ホームルームや遠足に参加した。小学校は付属の幼稚園からPTAまで全校を挙げて歓迎してくれた。そして、チェルノブイリ原発事故の勉強も。恐らくそれまではあまり関心のなかった事柄だったのだろうが、身近に犠牲者がいることで、事実をより深く認識できたようだ。
 2回目のホームステイとして、夏休みになってからわが家に来た子どもたちには決まった友達ができて、毎日どこへ行くのも一緒。そのうちの一人は、夏休みの自由課題を「ベラルーシの子どもたち」として、彼らと一緒にレポートを作り、発表した。
 日本の子どもたちにとって、最初彼らは、"かわいそう"な同情すべき対象だったのかもしれない。でも彼らを迎え入れ、一緒に遊んだり学んだりしてからはすっかりうちとけて、仲間同然のつきあいになった。
 異なる国の子どもたちが一カ月間共に過ごすのに、言葉という記号は共通のほうが便利だが、なくてもかまわないことがわかった。「言葉を知らないで話すのって楽しいね」こう言った子は、今ロシア語の勉強に夢中である。これまで何回かの来日の際に交流して「ロシアの匂」を感じ取るようになった十一歳の子どももいる。「あっ、やっぱりこの子も、前の子とおんなじロシアの匂がするよ」
 私は彼らをとても誇りに思う。
 双方が戸惑うのは、金銭的.物質的価値の大きな相違である。円とルーブルの桁外れの差。物品が洪水のようにある日本と靴一足自由に手に入らない彼らの国。私たちはまず「何もない」彼らの状況に立ってものごとを考えなければならないのだが、そのようなことはとても今の日本人には想像がつかず、できない。
 初めてプレゼントをもらったとき、美しい包装紙に彼らは呆然とし、破かずに紙を開くのに10分間もかけた。食べ物があれば、まず一口ずつを皆に配り、自分だけで食べようとはしない。店に行けば、値札の数字の大きさに驚き、買い与えたい物も拒絶する。
 アンドレイがわが家で"借りた"自転車と一緒に倒れて傷を負ったのは、借り物の自転車を傷つけたくなくて、かばったからだという……。こんな繊細さは私たち日本人はとうに忘れてしまっているのではないだろうか。

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測定器の数値は高く

 私と夫は、子どもたちを帰した後で、ベラルーシの彼らの故郷を訪れる機会を得た。子どもたちが生まれ育った環境はどのようなものなのか? その後、子どもたちの健康状態は? などを知りたい、と思うのはやはり"里親心"であろうか。
 そこで見た現実は想像を絶していた。測定器に示された驚くほど高い放射能値。私が訪れたときには、子どもたちは土挨にまみれてはだしで遊んでいたし、野原で花摘みもしていた。美しく広大なそして作物の豊かな大地。その産物が彼らの食料である。放射能に汚染されていようとも、それが日々の食事となる。体調のすぐれない子どもたちを、劣悪な状態の中で親たちが必死に守っている。
 歯痛に苦しむオーリャのための医者がいないほど、遅れている医療状態。日本からの医療援助もまだまだ必要であり、この保養里親プログラムにも、医療用具の援助がその一環となっている。帰国後の子どもたちの健康状態はおおむね全員が元気だった。ナターシャの鼻血は、ほんのときたましか出なくなった、と家族全員が喜んでいた。

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もっとたくさんの子どもたちを

 国土の40パーセントが汚染されたベラルーシでは、以前、かなり多くの禁止事項が子どもたちに課せられていたという。「道に落ちたものを拾おうとしたら、土が汚染されているから拾っちゃダメって言われたの……」そうした禁止だらけの環境は、遊びざかりの子どもたちに、ある種の閉塞状況をもたらしてはいなかったか?ロープ一本で様々に遊び、階段を上がるように木に登り、そして魚のように川を渡った彼らを見て、どの里親も、彼らの逞しさに驚いた。そう、彼らは本来自然児なのだ! ところが、故国の自然は毒を注ぎ込まれ、子どもが子どもであることの喜びを味わうことができなかった。日本での彼らは、故国ではふるまえなかった"子どもらしさ"を、まさに鎖から解き放たれたように楽しんでいたのではなかったか。
 住むべきでない場所で生きなければならないとは、なんと非人道的なことか。その理不尽と怒り。そしてそうした絶望感に耐えてなお、そこで生きている子どもたちと家族の精神力の強さ。
「このようなときこそ、家族や地域の人人と強く結ばれなければ」と……。その姿には率直に感動した。
 そして、親たちは私と夫の肩を抱き、涙を流すのだった。
「私の子どもをあなたがたの子どもにしてくれてありがとう」
「いいえ、あなたの子どもを私たちの子どもにしてくれてありがとう」
 
 私たちは、汚染地域から子どもたちを避難させる意義をあらためて認識し、一人でも多くの子どもたちを受け入れなければ……と痛感したのだった。
 ベラルーシ側の子どもたちを保養に送りだす機関「チェルノブイリの子どもたちのために」という市民団体は既に3万5千人(1993年当時)の子どもたちを海外に送り出し、さらに、受け入れ先を求めている。
 私たちが子どもたちに与えたいのは希望である。病と死の恐怖を持ちながらも困難な世界で生きている子どもたちが、それでも諦めずに、生きていく意味と可能性を見出せるように希望を与えること。保養ホームステイをした子どもたちは健康を向上させることばかりではなく、希望と未来を持ち帰るのである。
 彼らが日本での体験と交流を糧として、また日本の子どもたちが〃チェルノブイリの子どもたち"と出会うことから、子どもたちはこれからどのような世界を作ってくれるのか? 私たちは、それを楽しみに生きるだろう。希望を与えられたのは、私たちである。 (完)

附記: 

* 5月に帰国した子どもの、オーリャの母親(小学校教師)からの手紙には、「日本に行ったことが、チェルノブイリ原発事故で被災した子どもたちの健康や、経験上、どんなにすばらしかったか」と喜びの手紙が届いた。

* その後彼らはチェルノブイリ原発から約 50キロの村から、ミンスク市近郊の非汚染地域に集団で移住した。そこを私と夫は1998年に訪れたが、近所には以前からの知り合いが多く、交流しながら楽しそうに暮らしていた。オーリャとナターシャ二人の女子は、背が私より高く伸び、ハイヒールを履いて、すっかり大人びた美しい女性になっていた。その後、ナターシャは結婚し,子どもを得た。

* 私たちはその後も何回か、「チェルノブイリの子ども達に・千葉の会」の千葉市の家庭が受け入れたチェルノブイリの子どもたちが、わが家に短期ステイした。が、2000年までに、様々な個人的理由から私たちは受け入れを出来なくなった。この会は現在、下記として活動している。

「子どもを放射能からまもる会in千葉」

http://protectchildren311.blog.fc2.com/blog-category-9.html

* 2011年3月、いつも手紙のやりとりをしているオーリャの家族から,311の日本の災害を見舞う手紙が届いている。その他の(元)子どもたちからも、知り合いなどに届いている。

* NPO「チェルノブイリへのかけはし」は、92年から昨年まで648人のチェルノブイリの子どもたちを日本で保養ホームステイさせた。他にも、異なるやり方でチェルノブイリの子どもたちを救援している団体が種々ある。
しかしこれからは、フクシマ原発事故のために、日本の子どもたちが各地でのあたたかい援助の手を求めることになってしまったのである。


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2.
「チェルノブイリの子どもたち」ベラルーシ訪問記

                         鶴田静
(1992年4月「チェルノブイリの子どもたち」ホームステイ里親)

* 1992年のメモからの転記なので、不十分な部分はご容赦下さい。


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 1986年4月26日に発生したウクライナ共和国のチェルノブイリ原発事故による放射能汚染は,ウクライナのみならず、隣接するベラルーシ
共和国にも及んだ。ベラルーシに住む80万人の子どもたちは汚染による免疫低下のためにさまざまな症状に苦しんでいる。
 しかし非汚染地域に4週間転地すると、再び同じ地域に住んでも数ヶ月から1年間は症状が軽くなり、段階的に健康に暮らせるという。
 首都ミンスクにある「チェルノブイリの子どもたちのために」というボランティアの市民団体は、1990年から国外に子どもたちを保養ホームステイさせる活動を始め、14カ国に約17500人(1992年当時)を送り出している。日本でも子どもたちを受け入れて欲しいという呼びかけによって、日本の「チェルノブイリの子どもたちのために」が窓口になり、4月から5月の5週間にわたる日本での初めて、世界で15番目の保養ホームステイが試みられた。
 チェルノブイリ原発から約50キロにあるベラルーシ共和国ゴメリ州ブラーギン郡から、5人の子どもと通訳付き添いの大人1人が、千葉県鴨川市のエドワード・レビンソン(写真家)と鶴田静(エッセイスト)夫婦の家に滞在した。(その様子は別記のエッセイや新聞記事をご参照ください。)
この度、二人は、子どもたちの帰国後から1ヶ月半後に、彼らの家々を訪問し、5人の子どもたちと再会した。

これはその訪問記録=メモである。

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1992年7/1
ミンスクから8時間をかけて車で走り、夜明けの4時にブラーギンの村の真ん中で止まった。ここは原発事故現場30キロ立ち入り禁止区域からから約20キロである。古いバスの中に正装をしてやや緊張気味な顔があった。小さな花束を手にしたセルゲイ君(11歳)とアリョーシャ君(11歳)だった。

 サーシャ君は、そこから車で30分のサーシャ君(10歳)は母親の働く食料品店から勢いよく飛び出してきた。
 さらに20分くらい行ったカコリンの町に着くと、アパートの庭で遊んでいたナターシャちゃん(10歳)とオーリャちゃん(10歳)が「オカーサーン!」と叫びながら20メートル向こうから走り寄ってきた。
 こうして5人のこどもたちは再び、私たちの腕の中にもどってきたのである。

子どもたちがどのような環境の中で、どのように暮らしているのだろうか。日本から帰ってその後の健康状態はどうなのだろうか。それを知りたいと思い、「チェルノブイリの子どもたちのために」に訪問の手配を託したのだった。

 ブラーギン郡での世話役はセルゲイ君の両親、ウラジミール氏とナターシャさん夫妻。そしてミンスクからビタリ・ザイコ氏(元核物理学者・現地「チェルノブイリの子どもたちのために」ボランティア)が
日本語と英語の通訳としてずっと付き添ってくれ、そして日本の「チェルノブイリ救援基金」(東京)からの寄付である放射能測定器で測定する係になってくれた。

子どもたちのその後の健康
 * ナターシャ
日本で保養ホームステイする以前には、2週間毎に3日間鼻血を出し続けていた。私たちの家でも、到着の翌日に1日3回出血したが、その翌日から止まった。そして今は、帰国してからは1回しか出血していない。
 * オーリャ
彼女は甲状腺と腎臓を患った。その治療薬のために、以前は細身だったのが、今は肥満になり、体重は私と2、3キロしか違わない。すなわち10歳で52、3キロである。彼女も日本滞在から今まで、症状は出ていない。
 * セルゲイ君の姉レイラも入院していたことがあった。レイラは15歳。保養ホームステイの規程年齢は8歳から14歳。14歳を過ぎてしまったので、ホームステイには行かれない。
* 男子3人は元気そのものだった。

非汚染地帯での保養滞在による健康回復の効果は軽視できない。現地「チェルノブイリの子どもたちのために」の副代表によると、血液検査の結果(被験者が何人かは不明)、保養ホームステイした60名以上の子どもたちの健康状態は向上したという。また子どもたちは精神的にも落ち着き、以前より肉体的な苦痛が減り、ストレスも少なくなったという。
 副代表の言葉を裏付けるように、5人の子どもたちの母親は、こう述べた。
「父親のいないアリョーシャ君は口数が少なかったのだけれど、日本から戻ったら、とても明るくなりました。良くおしゃべりをしています。妹にもより優しくなって」
 そしてどの子も日本からのたくさんの写真を見ながら、毎日のように家族に日本の体験を話している。実際彼らは、私が日本で接していたときと変わらない態度だ。母親たちの描写と私の体験とはことごとく一致していた。それだけ伸び伸びとわが家に滞在していたことをうかがわせる。

7月はじめのブラーギンは良く晴れ渡った日が続いた。大きな白雲が天一杯にわき上がり、昼間ぎらぎらと輝いた太陽は、夜のとばりに包まれてもなお赤々と燃え立っている。ちょうど梅雨の上がった日本の夏と同じくらいの気温だ。
私たちは至る所で放射能測定をした。931=19キュリーを超えて警報が鳴り、赤ランプが点いたところもあれば、室内で50=1キュリー前後、植え込みや雨だまり、軒下では530=10.6キュリーを記録した。
このように高い放射能汚染度の中で、子どもたちは裸になって遊んでいる。ちょうどサクランボや桑の実やぐみの実が実る頃である。汚染されていることは知っていても、つい手が伸びて実をつまんで口に入れる。
事故の後で埃が立たないように舗装されたと言うが、子どもの遊び場や家の周りには土はまだそのまま残っている。その中で、数多くはない子どもたちが遊び、花を摘み、駆け回っているのである。
長々と続く白樺と松の木の林。それが途切れると、広大なジャガイモ畑やライ麦畑、トウモロコシ畑、牧草地が現れる。そこで農民が耕作をし、
乳牛が群れている。野には花々が咲き乱れ、、鳥が歌い。動物が跳ね回る。ロシアの大地は、ロシアのおばあさんの胸のように豊かである。
しかし、麦畑では310=6.2キュリーの数値だった。
「この辺はとても肥沃な土地なのですが…」とセルゲイの母ナターシャはため息まじりに言う。
筆舌に尽くしがたい美しい風景。豊饒な大地。だが、眼には見えず、音には聞こえず、香りはしないけれど、ここは確かに放射性物質で満たされているのだ。

私たちは何カ所かを測定した。当時の測定値は約50の数値は1キュリー  *ノルマル(平常値)= 6キュリー以下でないと外に出られない。

セルゲイの家の軒下。高 56キュリー。低 19キュリー。
おじいさんの家。930=19キュリー。
オーリャの家 植え込み 531=11キュリー。石畳 170=3.4キュリー
ナターシャの家 170=3.4キュリー
サーシャの家  低い 3キュリー
リョーシャの家  低い 3キュリー
外のベンチ 170=3.4キュリー
屋根の下 533=10.66-557=11.14キュリー  屋根の上にたまった雨で放射能はトヨの近くなどに凝縮されている。
学校 舗装された場所115=2.3キュリー。校舎の屋根の下 179=3.6キュリー。校庭にはカモミール、大きい花のタンポポ、昼顔が咲き乱れていたが、土の上は489=9.78キュリー。
*事故後、道路は埃が立たないように舗装された。その道路を挟んで、一方はAゾーン、原発から30キロ圏内で枯草の野。片方は、菜の花、干し草、緑の草花が咲いている。

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チェルノブイリから30キロのストップAゾーン 580=11.6キュリーまたは1580=31.6キュリーの間違い? 鉛筆の走り書き不明。
大きな松の木に放射能マークとガードマンの小屋があり、「ストップ」と朱書きのサイン。それが紅白の太いバーに付けてあり、これで交通は遮断されている。

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見捨てられた村 クラスネヤガラ(赤い山)に何年か後に何軒かが戻って来た。450=9キュリー
ヨモギ、スイバ、たんぽぽ、アカツメクサ、シャスタデージーなど、日本のわが庭に咲いている草花が一面に生い茂っている。
塀や屋根の瓦は取り去ってどこかに埋蔵した。

サバリ村 イワンさんの家 932=18.64キュリー。ジャガイモ畑216=4.32
「ここでは何でも良く育つよ。ジャガイモは豊作です。」

こちらも見捨てられていたが、戻って来た。妻子ばかりの村に住んでいる。壁には息子の若いときと、孫の写真が。姉が近くに住んでいるので、世話になっている。「家族の崩壊」。

食物は80-90パーセントが汚染されている。私たちを迎えて、どこの家庭でも毎日宴会のような心づくしのご馳走が並んだ。汚染されていることは分かっていても、美味しくて、私たちは満腹になるまで食べた。それらは何よりも、彼らの食べている,食べていかなければならない食物。そして心づくしのお料理。それを拒むことなどどうして出来よう。彼らは私たちの健啖ぶりを見て喜んだ。「事故以来、人々は怖がって、ここには誰も来てくれないのです」
雌牛を飼っている家庭が多いが、そのミルクは汚染されているのだ。が、ミンスク市で検査したが、飲むことを許可された。野菜も穀類も汚染されている。が、食べていかなければならない。

汚染地区から他地域へ移住していった人々も多い。セルゲイのアパートは90パーセントが空き家である。近くの学校には先生も生徒も居なくなり、この九月から閉鎖される。アパートの遊び場には犬がうろつくだけである。母親たちは、「かつては子どもたちで溢れていたのに…」と
眼を遠くにやった。彼らも9月には首都ミンスク市の近くの非汚染地帯へ移住するという。
しかし移住にはさまざまな困難が伴う。その主なものは、生計のための職探し。現在、ほとんどの親の職業は農業か工場労働者である。たとえ住居が見つかっても、職がなければ暮らしてはいけない。親たちはそれを強調する。健康のために移住はしたいが、暮らしのことを考えると勇気が出ない、と。
村には移住先から一人で戻り、家族と離れて暮らしている老人もいた。
生まれた場所を動きたくないという。
移住後、孤児になった子どもも数多くいるという。その上、汚染ゾーンに住めば、保障がもらえる、と言うこともある。

私たちの子どもたちは、一応元気な様子をしていることに、私たちはほっとした。だがどの子も日本滞在中よりも一回りほっそりしたように見えた。
 保養滞在の効果や、このプロジェクトそのものを疑問視する風潮もなきにしもあらずと言われる。が、子どもたちと再会し、親たちと話して、私たちは自信とさらなる勇気を得た。またそれは、わが家に滞在中の子どもたちを励ました多くの人々に対しても、その支援へのはなむけとなった。
 中でも、同じ市内に住む、広島の被爆者の女性が二人、度々子どもたちを訪れ、「私たちの体験からも、このように良い環境に滞在したことが、きっと良い効果をもたらすのだから、それを信じて、力強く生きなさい」と励ましを与えたことは、私たち里親にとっても大きな励ましとなったのだった。子どもたちはその彼女たちを良く覚えていた。高齢となった、ヒロシマ,ナガサキの被爆者とやっと10歳になったばかりの幼いチェルノブイリの被曝者は心を通い合わせていたのである。

病院で
ブラーギン村にある病院を訪れた。ここの患者さんは、妊産婦と未熟児、高齢者が主だった。患者170人、医師21名、看護士150人。患者さんは免疫システムをやられている。平均寿命は女73歳、男65歳。
医療機器、非汚染の食品と水が必要。
「ここでは希望を与えられないのです。このように草が生い茂って…」
希望がないのでもう草刈りもしない、とのこと。しかし土は4回変えた。
と女医さんは淡々と言う。確かに伸び放題の草むらと、うつろで寂しげな患者さんの姿には重なるものがあった。
病院の外 381、353-461 = 7.62、7.06-9.02キュリー
   内 50= 1キュリー
だが、だからこそ、私たちは子どもたちに少しでも、小さくてもいいから希望を与えたいと強く思った。
オーリャは奥歯が痛み、夜、泣いた。翌日再び痛み出した。が、ブラーギン村には歯医者がいない。医者たちは移住してしまったのだ。そして金儲けの医者が他の都市からやってくるという。

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 国外での保養、とりわけ日本は彼らの夢である。5週間の゛夢゛の暮らしによって、彼らがどれほどの希望を与えられたかは、この度の訪問によって、知ることが出来た。
「私たちの子どもをあなた方の子どもにしてくれて感謝します。」
「こちらこそ、私たちの子どもになってくれてありがとうございました。あなたたち5人はこれからも私たちの子どもです。私たちはあなた方の第二の親です。希望を与えられたのは私たちです。」
この子たちが、日本での体験と交流を宝物にして、これからの世界を創って欲しい、と切に願った。
子どもが持つ夢や希望は、だれも奪うことの出来ない彼らの権利であろう。

その後、ドニエプル川でのピクニックなど、楽しい二日間を過ごした。
子どもたちの元気と無事を見届け、私たちはミンスク市に戻った。

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ミンスク市の子どもたちのための癌センター を訪れた。
                          1992年6/30日

別に、白血病と甲状腺専門病院があるため、ここはこれら以外の癌患者さんが入院している。45床あり、0歳から14歳、そして大人が入院している。肺・大腸・脳腫瘍などの癌。それまでにのべ762人が入院。
子どもの癌はチェルノブイリ以前にはなかった。
治癒率はリンパ腫で5年間(子どもは3年前から)の検査結果では80パーセント。
無料。チェルノブイリ後、国から被曝者援護の保障がある。特権。
病院の記録は30年間保存する。
チェルノブイリ近くからの移住があり、これから病人は増加する。今までで250人くらいの新患が出る。白血病が多い。
癌の原因 放射能以外では、公害と食べものから。
薬は不足。輸入や寄付で得る。必要な物=抗生物質、ビタミン類、殺菌剤、専門薬、注射器など。注* これら必需品の寄贈も同時に行った。
外国との情報交換、ネットワーク。

病院は壁に鮮やかな絵が描かれていて、明るく見えた。けれども個室には毛髪が皆無の小さな男の子や、母親に見守られて脚に点滴を打っている1歳くらいの幼子がベッドに横たわっている。
子どもたちは先生について勉強している。

孤児院も訪れた。
この後で、次回、8月(1992年)にわが家に保養ホームステイに来る5人の子どもたちの家庭を訪れて子どもたちに会い、「日本で待っています」と伝えた。

* 日本に帰国後、8月に2回目の子どもたちが滞在中、市内のカメラ店のギャラリーでエドの撮影した「チェルノブイリの子どもたち」の写真展を開催した。


1992年12月に、「チェルノブイリ救援基金」(東京)の吉沢弘志代表らがベラルーシを訪れた。その報告書に
「4月に招いたリョーシャは鴨川にいたときとまったく同じ元気いっぱいの表情だ。日本での滞在からもう半年以上が過ぎているのに、保養の効果はまだ続いている」またナターシャは「鼻血は滅多に出ません」とあり、喜んだ。

吉沢氏の報告から抜粋。
チェルノブイリ救援募金資料衝生研究所

慌ただしいスケジュールの中で、ミンスクでは胡早く国立衛生研究所のV.タラピン所長に面会し、お話を聞くことができた。タラピンさんはチェルノブイリ事故以前から、豊薬、化学肥料などの化学物質と住民の健康についてさまざまに調査・研究を続けてきた方だ。事攻後は特に汚染地域がベラルーシの農業地帯であることから、放射能と化学物質の相乗的な悪影響について調査し、いくつかの農薬の使用禁止を政府に提案し取り入れられてきた。「それでは、こうした害のある農薬、化学肥料などを全面的に禁止してしまえばよい、という意見もあります。奇妙に思うかもしれませんが、わたしはそれには反対なのです。なぜなら、すべてを使用禁止にしてしまうと、たとえば除草作業など、農民の労働時問が増えてしまいます。汚染された農地での作業が長引けば、その分放射性物質を含んだ土ぼこりを吸い込むなど、農民の健康への悪影響が増加してしまうのです」。印象に残った話だ。そのほか、スポットのように汚染の低い場所がゴメリ州、モギレフ州などにもあるけれども、周囲の汚染の高い場所からの食糧に頼っているために、住民の健康は悪化するばかりであること、また、被曝の影響は幼い乳幼児と思春期の少年少女に顕著であるため、その年齢の子供のいる家庭を優先酌に移住させているなど、短い時間ではあったが具体的な内容に富んだ話が続いた。

「保養」の効果

タラピンさんとの話し合いで、そのスポットのように汚染の低い地区として例に出されたのが、ゴメリ州のモズイリ(事故炉から80キロ)である。1-5キュリー/㎞2の汚染状態の地区に現在も2万5千人の子供たちが暮らしている。モズイリの子供たちの、チェルノブイリ事故後最近5年間の病気の増加について、つぎのようなデータを受けとっている。・気管支喘息:2.5倍'アレルギー症状:2倍・腫瘍性疾患:4倍(とくに甲状腺癌の急激な増加が顕著)・小児糖尿病:1.5倍・白血球減少:3倍・胃腸病:5倍こうした健康障害を抱えたモズイリの子供たち103人が91年、92年に海外での保養を経験した。その結果、地区病院での診断データとして、血液中ヘモグロビン量の増加(貧血症状の改善を意味する)、甲状腺肥大度の軽減、急性疾痛
数(喘息など)の顕著な減少、体重の増加という「健康回復」ぶりが確認されたのである。数字のデータが「健康障害」のごく一部しか示さないように、これは確かに貴重なデータではあるが、このデータも「健康回復」の一部しか示してはいないご日本で保養を経験した子供たち40人がどれほど健康を、それも身体だけではなく心の面でも回復したことは、子供たちに接した人たちが一番よく知っている。コマリンのオルガの母親の言葉ではないが、わたしたちはこの子供たちにすばらしいものをプレゼントしたのである。



付録 各家庭での食事=ごちそう(ほんの一部 鶴田訪問の場合) 
* お客をもてなすための特別な特別な料理。ふだんは質素な食事。

  1. 1. 魚のフライ、鴨の詰め物一羽分、肉じゃが、鰯+チーズ、キュウリのカナッペ、キャベツの酢の物、レバーのフライ

  1. 2. ジャガイモのパンケーキ・チーズ入りブリンツ、トマトとキュウリの赤いソース添え、ニンニク風味のチーズ、パン、じゅーす、チャイ、はちみつ、サワークリーム

  1. 3. 魚のフライ、しいたけ(丸1個)とネギの炒め物、キュウリとトマトのサラダ、他

  1. 4. 小麦粉のパンケーキ、丸ごとジャガイモ、揚げパン、魚のフライ

  1. 5. サラダーキュウリとトマトの薄切り・フレンチドレッシング
  ラディッシュ・サワーソース、ポテト、スパゲティートマト味、
  魚の唐揚げ、ハムとチキン、けーき、ブランディー、シャンペン、
  ウオツカ、ビール、チャイ、ベリーの実を煮たジュース、コーラ




3.
92年チェルノブイリの子どもたち千葉県鴨川市に保養ホームステイの報道記事など
当時、日本で初めての試みだったので、ほとんど全ての新聞、ラジオ、テレビ、雑誌などに取材され、報道された。報道はこの運動を広めるために必要不可欠だった。子どもたちに趣旨を説明し、納得してもらい、取材に応じた。が、個人的商業的利益のための取材報道には応じなかった。
そのうちの何点かを転載します。来日から帰国、その後の便りなど。


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