静かなる連載「バカンスの夢」2021年9月


2021年より再開の頁です

以前から書いていたプログを、執筆のために休止していましたが、長いことかかった原稿がなんとか終わるので、こちらにこれまでに書いた
短文のエッセイを集約することにしました。テーマは、私自身の色々な体験と暮らし方が主ですが、時々お読み下されば嬉しいです。
✿ やっと長文の原稿の縮小がなんとか終わり、これから出版に向って動かなければ…….10年前から書き続けた原稿を1/3に縮めるのはちょっと悲しい。タイトルにも苦労しています。フローラ(植物)の文芸書です。日本の古典書から外国語書籍まで色々な本を読みました。
現在、若い新人が多くの斬新なテーマの小説を書いていることに感心します。
● この次は以前に、
「マジックバス」でロンドンからギリシャ経由、インドまでの旅の楽しい話を予定。



静かなるエッセイ  「バカンスの夢」2021年9月


 毎日が日曜日でも月曜日でもいい暮らしをしている私だが、咋年からのコロナ禍での自宅巣ごもり状態は苦しい。これまでは世間が休日ともなれば、滞在型のお客が多くなることも事実だし、私自身、雰囲気だけでも夏休みを楽しみたいではないか。しかし、お客がやって来ることと、海に近い田園に住んでいるので遠くに出かける必要のないのは、幸なのか不幸なのかどちらだろう?
 そんなわけで私と夫の夏休みは、お客と一緒に夏休みするか、思い出や本によって遠くへ旅するのである。だが旅を憧れる心には、今年はふるさとの東京へさえ行かず、予定していた南仏プロブァンスへ行かれないことが悔しい。
 プロブァンスと言えば、90年代に人気となった本の作者、イギリス人の作家ピーター・メイル氏と雑誌で対談した思い出が蘇る。それは春だった。
 ある雑誌の仕事でメイル夫妻と東京でお会いしたが、その時、私はご夫妻に小さなプレゼントをした。どちらかというとミセス・メイル、すなわちジェニファーさんを心に入れて。
 それは高さ十センチほどの小さな花束。朝六時、朝露をつけたままの春の野の花々を、私は野原や土手で摘んだ。それを小瓶に入れ、和紙で包み、リボンを掛けた。ホテルに着くと、カードと共にお部屋に届けたのである。
 翌朝ご夫妻にお目にかかったとき、なぜか初対面ではないような雰囲気だった。ジェニファーさんは私を寝室まで引っ張っていき、「ねえ、見て、あそこに置いた
のよ」とサイドテーブルの上のあの小さな花束を示された。「きっとプロブァンスを思い出してくださると思って……」と私。
「ええ、その通り。芳わしい香りに、妻はとても喜んでいますよ」とメイル氏。
白い房咲き水仙を一本混ぜたら、菫や仏の座や姫踊り子草や、蔓十二単やブロ
ッコリーの〃プティット〃な花々に、密のような甘さが加わったブーケになったのである。
 数日後、関西から戻ったジェニファーさんから手紙が届いた。彼女の、いかにもイギリス人らしい流麗なペン使いの手書きである。「ことのほかあの花束は嬉しかったです。押し花にしました。そして私の今回の旅の思い出帳に挟みました」とあった。
 実は私は、こんな小さな花束を差し上げるなんて……と躊躇したのである。しかし夫は、「きっと喜んでくださるよ」、と贈る勇気を鼓舞してくれた。案の
定、お部屋はおびただしい数の大きな花束で溢れかえっていたのだった。それにもかかわらず、こんな小さな野の花にも喜び、敬意を表し、大切にしてくださったのである。一瞬にして散る花の命を、永遠にとどめて。私の胸に、熱いものが込み上げた。 
 私は贈物が下手である。あれこれ相手のことを想像し過ぎ、結局は自己満足で終わってしまうのが常であり、送ってしまってから、後悔することがしばしば。けれど今回だけは、こちらの思いの通じるよい受け手に出会え、贈り手としての私は幸せであった。
 今頃あの花々は、私の代わりにプロヴァンスで素敵なバカンスを楽しんでいるのだろう。
 ああ、それにしても、世界からコロナが消え去り、どんな人々とでも自由に幸せを分かちあえる日が、一日、一時間、一秒でも早く来ますように。



静かなる連載 「心の喫茶店」 21年10月7日           
な時期の私の背景にはいつも、溜まり場としていた喫茶店があった。今思うと、私の人生の土台を築く一つの材料となったのが、喫茶店だったと言うとおおげさかな。若い頃に行っていた喫茶店のマスターの車椅子姿を遠くに見た時、そんな風に思った。
 高校生の時、生まれて始めて入ったのは、北原白秋の詩集のタイトルと同じ名前の店「邪宗門」。小さい店内は、アンティークが所狭しと並び、青やピンクや黄色のランプシェードの幻想的な光で包まれている。その頃、こんなお店はどの町でも珍しかった。
そこへ行ったのは、現在のようなファーストフード店はおろか、他に喫茶店などなかったし、また学校から近かったからだ。 
 指定されて初めて入った喫茶店での本来の用事は、上級生の男子から、私の送ったラブレターに対する返事を貰うためだった。答えは「迷惑だからやめてほしい」。けれども私は、この夢か幻のような喫茶店を知り、通うようになったことの方を喜んだから、うちひしがれることもなく、挫けずに済んだ。
 後になって私がアンティック好きになり、また素人の喫茶店経営が流行ってきて私もそうしたいと願ったことは、不思議の国をかいま見た16歳のこの時に、端を発しているのだと思う。
 その後大人になって、東京近郊の私のテリトリーだった二つの
旧い喫茶店は、Hという同じ頭文字だった。 
 ついに私に、お客のために珈琲をたてる機会がきた。ある時、久しぶりにいつものジャズ喫茶店へ行ったらその店は壊され、大工さんではない普通の人たちが大工仕事をしているのである。「いったい、何をしているんですか?」
「自分たちの喫茶店を作っているんだ。あなたも仲間に入りませんか?」
 気がつくと私は、すぐさまシャベルを握り、セメントをこねているのだった。毛皮のコートを着、九センチのヒールのブーツのままで。大学教授や評論家、歌手などといった人たちが参加し、やがて「ほんやら洞」と言う名の喫茶店が出来た。1年間そこにいた私は、とても大きなものを得たのである。
 一生の生き方をどうするかと悩んでいた二十代、その頃出会った喫茶店は、自分たちの生き方を今までとは違うものにしようとする、いわゆる〃対抗文化〃を支持する人々の共同経営の店だった。ここに集まる人たちの自由さと闊達さに羨望はしたけれど、その中に飛び込んでいく勇気は出なかった。後にああ、やはり私はこの時から、彼らの思想や行動力の真価に気づいていて、真似ていたのだと知るが。
 遠い国から運ばれて来る珈琲の豆。その豆をひき、一杯の珈琲を入れて飲む。それも家庭でなく喫茶店という独特の空間で。漂ってくるアロマは確かに珈琲豆のものなのだけれど、それはもはや豆自体のではなく、喫茶店のアロマでもある。その風味の中に、酸味や苦み、甘みが感じられるが、それはまた人生のアロマともなる。若き日の私の風味を作ってくれた喫茶店のマスターや仲間たち、彼らの年輪は、自分のそれでもあることを、今、毎日飲む私の心の喫茶店の一杯の珈琲が教えてくれる。